引込線
地上に張りめぐらされた鉄道や電線は、様々なコミュニケーションを支えるインフラ・ストラクチャーである。引込線とは一般に、鉄道本線や電線路から分岐し、特定の場所へ引き入れられた線路や電線を意味する。アート・プロジェクトである引込線は、諸々の「本線」、つまり大文字の美術史という「線」や公共的なコミュニケーションの「線」から外れた、ある種ポケットのような時空間を準備するものだ(ただしそれは、まったく無関係に走る別の線からではなく、あくまで「本線」が分岐した線から辿り着くことのできる時空間である)。引き込まれたその先は、必ずしも有線とは限らない。
引込線
地上に張りめぐらされた鉄道や電線は、様々なコミュニケーションを支えるインフラ・ストラクチャーである。引込線とは一般に、鉄道本線や電線路から分岐し、特定の場所へ引き入れられた線路や電線を意味する。アート・プロジェクトである引込線は、諸々の「本線」、つまり大文字の美術史という「線」や公共的なコミュニケーションの「線」から外れた、ある種ポケットのような時空間を準備するものだ(ただしそれは、まったく無関係に走る別の線からではなく、あくまで「本線」が分岐した線から辿り着くことのできる時空間である)。引き込まれたその先は、必ずしも有線とは限らない。
放射線
原子力発電にも利用される放射性元素は、一定の確率で放射線を放出して崩壊していく。放射線は高エネルギーをもつ素粒子であり、衝突によって生物のDNAを破壊したり、半導体デバイスのビット情報を反転させ、ソフトエラーを引き起こすことがある。宇宙から飛来する宇宙放射線は、霧箱によって連続した一本の「線」として可視化されるが、それは確率の波が粒子へ収束した結果であり、真空中での放射線は確率の波として遍在している。
放射線
原子力発電にも利用される放射性元素は、一定の確率で放射線を放出して崩壊していく。放射線は高エネルギーをもつ素粒子であり、衝突によって生物のDNAを破壊したり、半導体デバイスのビット情報を反転させ、ソフトエラーを引き起こすことがある。宇宙から飛来する宇宙放射線は、霧箱によって連続した一本の「線」として可視化されるが、それは確率の波が粒子へ収束した結果であり、真空中での放射線は確率の波として遍在している。
振る舞い
前衛の起源である未来派は、歴史の線(連続性)を断ち切る代わりに、芸術と生の運動を直接結びつけようとした。言語の統辞法や線条性を破壊し、無限の分子的生命を詩に導入しようとしたマリネッティの紙面上での試みは、やがて劇場や街中での観客に対する扇動的な振る舞い(パフォーマンス)へと発展し、それは同時に、物質への接近(ノイズや触覚性)を促すことになる。後のパフォーマンス・アートの先駆となったミニマムな振る舞いの数々、その即興的で断片的なあり方は、逆説的にも「総合演劇」の実践としての帰結だった。「私」という人称で記述されるような主体的個人など存在せず、あるのは非人称的な分子の振動(群衆の無意識的な欲望)だけだとすれば、それらを「無線の想像力」でいかに交錯させるかという課題だけが残る。
振る舞い
前衛の起源である未来派は、歴史の線(連続性)を断ち切る代わりに、芸術と生の運動を直接結びつけようとした。言語の統辞法や線条性を破壊し、無限の分子的生命を詩に導入しようとしたマリネッティの紙面上での試みは、やがて劇場や街中での観客に対する扇動的な振る舞い(パフォーマンス)へと発展し、それは同時に、物質への接近(ノイズや触覚性)を促すことになる。後のパフォーマンス・アートの先駆となったミニマムな振る舞いの数々、その即興的で断片的なあり方は、逆説的にも「総合演劇」の実践としての帰結だった。「私」という人称で記述されるような主体的個人など存在せず、あるのは非人称的な分子の振動(群衆の無意識的な欲望)だけだとすれば、それらを「無線の想像力」でいかに交錯させるかという課題だけが残る。
重ね合わせ superposition
物質を構成する最小単位である量子は、複数の可能性が重ね合わされた状態で存在している。つまり、ひとつの量子は、その量子が検出され得るすべての場所に存在している。例えば、目の前のウラン鉱石から飛び出したと同時に飛び出さない放射線は、皮膚を透過すると同時に反射し、体外と体内に同時に位置している。
重ね合わせ superposition
物質を構成する最小単位である量子は、複数の可能性が重ね合わされた状態で存在している。つまり、ひとつの量子は、その量子が検出され得るすべての場所に存在している。例えば、目の前のウラン鉱石から飛び出したと同時に飛び出さない放射線は、皮膚を透過すると同時に反射し、体外と体内に同時に位置している。
ひとつ
「ひとつ」とはひとつの概念である。それが概念一般を成立させるための前提となるものでありながら、同時に、数ある概念のうちのひとつとして埋没してしまうことに、諸々の混乱の種がある。「一者」という語を念頭におけばすぐにわかるように、「ひとつ」が数の基本単位以上のもの、概念以上の概念だと考えられるのは、諸項として関係づけられる前に、まだ実体ではない端的な何かがある、ということを朧げながらも示唆しているからである。他方で、「ひとつ」が概念であるということは、それ自体で存在する不可分なものを指し示すというより、あくまで手続きとして要請されたことを示唆する。この手続きは、関係づけられる実体が存在する前に、すでに存在している関係に向けられている(例えばフレーゲは「同数」という概念が「数」概念に先立ち、それを定義すると考えた。「同数」つまり「一対一対応」という関係のほうが「ひとつ」を規定するのだ)。
ひとつ
「ひとつ」とはひとつの概念である。それが概念一般を成立させるための前提となるものでありながら、同時に、数ある概念のうちのひとつとして埋没してしまうことに、諸々の混乱の種がある。「一者」という語を念頭におけばすぐにわかるように、「ひとつ」が数の基本単位以上のもの、概念以上の概念だと考えられるのは、諸項として関係づけられる前に、まだ実体ではない端的な何かがある、ということを朧げながらも示唆しているからである。他方で、「ひとつ」が概念であるということは、それ自体で存在する不可分なものを指し示すというより、あくまで手続きとして要請されたことを示唆する。この手続きは、関係づけられる実体が存在する前に、すでに存在している関係に向けられている(例えばフレーゲは「同数」という概念が「数」概念に先立ち、それを定義すると考えた。「同数」つまり「一対一対応」という関係のほうが「ひとつ」を規定するのだ)。
複数
複数あることは政治の基礎である。量としての複数は、数の同質性を前提としたうえで、並べること、比べること、選ぶこと、構成すること、競わせること、共同すること、分担すること、紛れ込むこと、蓄えること、使い分け使い捨てることなどを実際に可能にしている。しかし「複数ある」状態が量としてでなく質的な特異性をもつのは、ある状態が相反する別の状態と重ね合わさったときである。例えば「引き込みつつ放射する」という相反した状態を想定した場合、空間的に捉えるなら、全体が否応なく部分に分割されるか、階層化される。あるいは時間的に捉えるなら、「引き込む、その後に、放射する」と序列化される。もしそうした手だてがなければ、相反状態は「円い四角形」という矛盾の例と同様に、どう想像してよいのかすらわからない不可能なものになる。この不可能なものを逸らすことなく顕現させること、「複数性」というひとつの単語に収斂せずに、異質的に複数であることを示すのが、芸術の政治主義の方針である。
複数
複数あることは政治の基礎である。量としての複数は、数の同質性を前提としたうえで、並べること、比べること、選ぶこと、構成すること、競わせること、共同すること、分担すること、紛れ込むこと、蓄えること、使い分け使い捨てることなどを実際に可能にしている。しかし「複数ある」状態が量としてでなく質的な特異性をもつのは、ある状態が相反する別の状態と重ね合わさったときである。例えば「引き込みつつ放射する」という相反した状態を想定した場合、空間的に捉えるなら、全体が否応なく部分に分割されるか、階層化される。あるいは時間的に捉えるなら、「引き込む、その後に、放射する」と序列化される。もしそうした手だてがなければ、相反状態は「円い四角形」という矛盾の例と同様に、どう想像してよいのかすらわからない不可能なものになる。この不可能なものを逸らすことなく顕現させること、「複数性」というひとつの単語に収斂せずに、異質的に複数であることを示すのが、芸術の政治主義の方針である。
幾つか
幾つかあることは「ひとつ」や「複数」のようには即座には概念化しがたい任意性の徴を帯びている。その量としての側面は「複数」とは異なり、決して具体から離れることはない。これをあえて概念化するなら、ひとつではないが多くでもないもの、すなわち「不特定な少数」ということになるだろう。量にとどまって考えると、「幾つか」と対照されるのは「沢山」である(英語の「some」と「many」の差異)。例えば通常、沢山の人たちの個々の顔は見えないが、幾人かならば顔が見える。にもかかわらず「不特定な」という条件がつくからには、沢山の人々と対峙するのと同様に、なぜか顔が見えない(3人でも4人でも5人でもある顔など認知できない)。こうした特徴が、相対的に少なくあるが数値は特定されない未分化の量「幾つか」に固有の規模を形成する。
幾つか
幾つかあることは「ひとつ」や「複数」のようには即座には概念化しがたい任意性の徴を帯びている。その量としての側面は「複数」とは異なり、決して具体から離れることはない。これをあえて概念化するなら、ひとつではないが多くでもないもの、すなわち「不特定な少数」ということになるだろう。量にとどまって考えると、「幾つか」と対照されるのは「沢山」である(英語の「some」と「many」の差異)。例えば通常、沢山の人たちの個々の顔は見えないが、幾人かならば顔が見える。にもかかわらず「不特定な」という条件がつくからには、沢山の人々と対峙するのと同様に、なぜか顔が見えない(3人でも4人でも5人でもある顔など認知できない)。こうした特徴が、相対的に少なくあるが数値は特定されない未分化の量「幾つか」に固有の規模を形成する。