引込線/放射線2019 サテライト企画
『「~映像と斜陽」2020/07/18(土)上映後トークイベント』
 
登壇者:小林耕平、高嶋晋一、立川清志楼、中川周、山形育弘(ゲスト) 
司会:岡本大河、鐘ヶ江歓一 
 
 
 
鐘ヶ江:この上映は引込線/放射線2019というプロジェクトの中の、サテライト企画の一つとして企画されたものです。 見てもらうだけでは分からない部分も多いと思いますので、それぞれの作品や企画の意図などについてお話ができればということでトークイベントを企画しました。
 企画の鐘ヶ江と岡本が司会進行していきます。慣れていない部分もありますが、どうぞよろしくおねがいします。
 
(登壇者紹介、挨拶)
 
 
 
- 上映会について-
 
 
鐘ヶ江 : いろいろ配布物があるかと思うんですが、まず簡単に私たちが映像というものをどのように捉えてこういった上映会を企画したのかということを少しお話ししたいと思います。そのあと、ゲストの山形さんと上映会参加者の皆さんにお話を聞いていこうと思っています。 よろしくお願いします。
 
 
岡本 : まず、映像を使って考えられることを様々に検証、実験してみたいというのがこの企画の始まりでした。そのときに、映像というのは部屋に何個か並んでいるものを見るというあり方とは別に、並べて映像の時間の中で検証するということができるし、ある意味そちらの方が自然なのではないかと考えました。
 映像で考えるということは時間の中で考えるということであり、連続性の中で考えるということです。連続性の中で何と何が似てるのか、似てないのか。例えば、似てないはずのものが似て見えてしまうということが起きれば、それは映像において続きに見えるということです。タイムテーブルを組み、上映という形式をとったのはそのためです。
 
 
 鐘ヶ江 : 映像について、と同時に映像で何が考えられるかということですね。そうしたことに特化した上映会は意外と少ないのではないか、ということが僕らの問題意識としてありました。
 ところで、山形さんはcore of bellsというハードコアパンクバンドで活動をされていますね。最近は映像作品であったり、パフォーマンスであったり、いわゆるバンドの活動に限定しない形で音楽というものを展開し、実践されています。そういった視点の広げ方に僕は興味があって、今回の企画に合わせてお話を伺うことができればと思いました。
 上映会をご覧になってどうでしたか?
 
 
山形 : そうですね。一言で言うのは難しいのですが、 映像ってこれを見たらこれも見てくれ、とかこれとこれを覚えておいてくれ、みたいな説明的な圧を映像の外から感じることが多いような気がするんですけど、今回は割と映像だけを見ていられました。
 ご紹介いただいた様にcore of bellsはここ数年、映像作品を作っていて、人の作品を見ると何で映像を選んだのかなとか、どういうルールなんだろうなとか、あと何でこんなラストなんだろうなとか思いながら見ていました。
 関係性で言うと僕は小林耕平さんの作品に10年間ぐらい出演をしているのでよく知って います。あとcore of bellsの新作の撮影監督をやってもらっているのが中川さんで、興味深く拝見させてもらいました。
 
 
岡本 : 小林さんはどうでしたか?
 
 
小林 : 僕も一つ一つ面白かったです。ところで最近、家で映像を見る機会もあるけど、ほとんど飛ばしてみている。めんどくさくてね(笑)。それで最初、感染症のこともあるので、リンクを送ってもらって家で見ようと思ったんだけど、これはちょっと見れないなと思い、 この場に来て見ることにしました。
 今回こういった状況の中だけどオンラインでやる案はないの?と岡本さんに聞いたら、上映会を設けるという話をしていたので、こうやってやることに大きな意味があるのかなと思ったんですけど、そこら辺どのように考えてますか。
 
 
岡本 : 卑近な理由から挙げれば、小林さんが仰ったように、こういう風に拘束しないと人は映像をあまり見ないと思っていたからです。
 あと、映像って結局プロジェクションなりされる一定の演劇的な箱が必要じゃないですか。この上映会では特にそうした空間や映像の光そのものに言及する作品( 戸田祥子作「あなたの昼と夜」)もあったので、その辺りが死んでしまうと思い、オンラインでは難しいと考えていました。
 
 
小林 : 拘束しないと見れないじゃないですか?と同意を求められたけど、今YouTuberとかいて、ネットで映像は見れるというのが多く人の映像に対しての意見だと思うけど、ここで言ってる映像というのは、そうしたものとは違うんですか?例えば、家でネットとかで映像を見ていても、それはあまり映像経験じゃないということ?
 
 
岡本 : もちろん、それも一つの映像経験だと思います。ただ、配信の様な形で無限にばらまかれたものと、こうした時間を共有した空間での上映とは全く違う性質があると思っています。
 あと当然ですけど、映像ってあまりいろんなサイズになっていいと思っていなくて、ある程度の大きさは必要だろうと思っています。だから、配信をスマホとかで見るっていうのは全然違う経験かなと思います 。
 
 
 
- 画像とイメージ -
 
 
小林 : 映像って大きな言い方をすると世界に向けてカメラを向けるわけだけど、そのカメラの人称みたいなものを気にしながら見ていました。これは誰が撮っているんだろうということを。
 もう一つ、これは「イメージ」なのか「画像」なのかどっちなんだろうといったことも考えました。岡本さんの場合だともともと油絵を書いていて、かなり「イメージ」について考えているように思います。その一方、鐘ヶ江くんは一番最後のやつもそうだけど、この世界との関係を取り戻すような感じで僕は捉えたんだけど、そこに「イメージ」があるのかないのか分からない。でも明らかに岡本君の方はある。
 
 
岡本 : 「画像」と「イメージ」って何が違うんですか?
 
 
小林 : 「画像」の方が即物的なものを言っているかな。カメラで撮ったものと言う感じ。例えば中川さんと高嶋さんのやつは、カメラ自体も、モノとして扱うわけだけど、それが映すものについてどう考えているのか。その中で映像の持つ「イメージ」についてどのように考えているのか。
 
 
高嶋 : ある映像がその内に固有のイメージを持つかどうか以前に、映像が映像らしく見えるモチーフって、ある程度あらかじめ決まっていると思うんです。それは現象、例えば何気ない自然現象です。とりわけ、風がゴーッと吹いて木々がざわざわするとか、小川の水がさわさわ流れるとかいった、持続する時間を喚起させる現象。他には、これも現象の一種です が、鏡や水面、ガラスなどの反映、そうした透明なものに反射する光のかがやきなど。そういう現象、映像を映像らしく見せるモチーフは、今回上映された映像作品にも頻繁に出てきました。けれど僕らの作品は、そうした現象を撮るのを排除しているところがある。 キラッとした光や、徐々に姿を変えていく影のうつろいといったものを......。
 
 
中川 : いや、撮っているけどね(笑)。
 
 
高嶋 :(笑)これはまだ、そういったスタイルが明確に固まるちょっと前の作品だから、まあまだ残ってるんですけど、でも、そういった現象をわりと意図的に削って作っている。
 
 
中川 : この《 The Crack-up: Rebuild 》という作品は、以前「修復」をテーマにした展覧会があって、そこに出品したものです。そのテーマの通り修復について考えて作りました。もともとは今回のような上映会ではなく、展覧会でループ再生されることを前提にして作られたものです。
 僕も一年以上、この作品を見直していなかった。それで今、自分たちの映像を改めて見て思うのは、結局これのどこが修復なんだろうか、また修復と再現とは何が違うんだろうか、ということです。
 例えば絵画の場合なら、絵の具やキャンバスという具体的なモノがあって、それらを媒介にして何らかのイメージを表わす、あるいは再現する、という一般的な図式がありますよね。その場合、媒介するものと再現しようとするものとはモノとしての原理が異なり、その原理が異なるもののあいだで置き換えを成立させることが絵画制作だと言えます。
 対して映像はどうでしょうか。映像の場合は機械的につまり半ば無条件に、自動的に世界を再現しているとも言える。何かを再現するといっても、何を何に置換しているのか。もちろん映像の場合も、現象と映像とのあいだで置換作業を行っていると言えますが、その操作が自動化されているため、現象と等価なようにも思える。どこか曖昧です。それでは、再現することを目指すのではなく、修復しようとしてみたとしたら? そういうことを制作時に考えていたのだと思います。「修復」とは、再現のように「〇〇としてみなす」ことを条件としておらず、むしろ置換されてもなお置き換えきれないような物的証拠が残りつづけることなのではないか、と。
 
 
高嶋 : 一般に、修復の対象となるのはを何らかのモノ、物体です。では、そもそもモノとして残らない一過的な現象を修復するとしたら、どうやって修復することができるのか、という無茶な問題設定が、制作当時ありました。あるいは、作品タイトルとも関係しますが、 「壊れる( 崩壊 )」という現象を修復、再構築するとはどういうことなのか、という問いですね。映像が束の間生じた現象をとどめることに特化したメディアだとして、しかし「現象を修復する」ならば逆に、そうした現象は失われていなければならないわけです。失われていないものは修復できない。だから現象を省く。映像が当たり前に得意としていることを、ひとまずストップしてみる。
 どういうことかというと、例えば普通、落下する物体を撮ろうとしたらそれを追うように同じ速度でカメラも動きますよね。あるいは長回しではなくカットを割るなら、まず一つ目のカットで落ちる瞬間を捉え、次にその結果、落ちた後に破損したなら破損したその物体が映っているカットをつなぐ。こうしたやり方が、映像で現象や変化を捉えることだとされています。でもそうではなくて、もうすでにモノは壊れている。壊れて停止している。それは動かせない。地面にあるこの柿は潰れているが、潰れているのは木から落ちたからだろうと、それを見て僕らは修復というか推測しますよね。同じように、いわばカメラが失われた現象を推測的に修復する。その現象、木になっている柿が落ちて潰れるまでの様子を撮るのではなく、なぜかカメラのほうが落下する。カメラが落ちて停止した画面には、停止した潰れた柿が映っている。つまり柿の来歴をなぞっている。カメラの動き以外に現象はあまり起こらず、実際に動くのは主にカメラ、というわけです。カメラの機械的な再現性にさらに再現を重ねている、とも言えるかもしれない。
 
 
小林 : 図像的な結果と、カメラが落ちる現象を別の層で捉えて実践してるっていうこと?
 
 
高嶋 : そうですね。
 
 
小林 : 例えば映像の中で、ガシャンって何かが落ちた時に、ガラスの破片が映っていたけど、そのガラスはあらかじめ壊れていたもの?
 
 
高嶋 : 基本的にはそうです。そのカットでは、カメラが落下して、地面にあるガラスの破片が映し出されるまでに、別のモノがピューッと遠くに飛んでいったり、同時に(同録ではない)ガシャンという金属音がしたりと、いろいろ他の要素も入っているんですけど、ガラスが割れるまさにその瞬間が映っているわけではない。カメラが落ちるそのわずかな時に、それとは別の運動が介入し交差している、というようなカットです。
 
 
鐘ヶ江 : 高嶋さん中川さんがカメラの運動を執拗にコントロールしているのに対して、小林さんはカメラに対して何らかの、無作為性というか、別の役割を与えていたと思うんですね。あそこで撮られる対象となる小林さんと、カメラの関わりとか、力関係というものはどういうふうに考えていたんでしょうか?
 
 
小林 : あの映像を撮ってくれたのは、普段あまりカメラを回すことのない人なんです。でも写真を撮ってもすごくシャープな写真を撮るので、ものに対する関心が強い人で。撮影の時にはその人に”あまり僕に関心を向けないでください” という指示を出しました。ものへの関心が強い人に関心を向けないでくださいと言ったので結構混乱したようで、だから本人もよくわからずやっていると思う。それで、ちょっと見返した時に、これでいいの?と聞くので まだちょっと見すぎですね、みたいな(笑)。
 
 
岡本 : 加えてあの映像では、実はかなり恣意的な編集も挟み込まれていますね。他者との共同制作の様な形で、どこまでが作家のコントロールによるものかわからない様な作品のあり方は、のちの制作にもつながるものではないかと思ったのですが、そのあたりはどうですか?
 
 
小林 : 撮影してる側と、僕が目の前でうろうろして何かやってる側、二人それぞれの時間みたいなものがあって、編集はそこに三人目が現れる様な感じで捉えています。
 さっき「イメージ」という言い方をしたんですが、それは僕の中で欲望とか好奇心に近いものです。それを極端に少ない状態にする意識があります。
 
 
岡本 : 欲望が少ない状態ですか?
 
 
小林 : 例えば鐘ヶ江くんの作品とかは、そもそも世界に関心のない、欲望のない人の作品に見えた。つまり、世界に距離感を失った人がそうしたものを取り戻そうとして試行錯誤してる様子です。
 
 
山形 : ボケとツッコミが混在してるような、二回ボケてるけど一回しか突っ込まないみたいな(笑)。
 
 
小林 : でもそれがある意味では独り言にものすごく近い。僕はシステムみたいなものが構造的に分裂するように方法論的に作っているところがあるんだけども、でもこの映像は構造的に壊れてるんじゃなくて、鐘ヶ江君が壊れているんだという風に思ったんです。
 
 
鐘ヶ江 : まあ何かを撮ってやろうっていう意識もあるんですが、いつもああした撮れ味に なってしまうというところもあって......(笑)
 ところで、立川さんにもお話振っていこうかと思います。カメラのお話がありましたが、 立川さんカメラの扱いって、一方でモチーフを待ってるような受動的な態度を見せつつも、 他方どこか対象に対して関心があって能動的に撮ろうという姿勢も見られるように思います。撮影では、どういったことを考えているんですか?
 
 
立川 : 例えば今日の映像はワンカットなんですけど、基本長回しなので、回せるだけ回そうっていう意識があります。私はよく動物園に通ってるんですけど、子供が入って三脚に触ったりとか色々するんです。それに邪魔されないうちは、出来る限り回します。他は別にあまり考えていないです。
 
 
鐘ヶ江 : 回せるだけ回すというのは、カメラの機材の限界ということでもあるんですか?
 
 
立川 : 以前は一眼カメラの動画機能を使っていたので、15分で終わってしまうという限界がありました。しかし新しいものに買い替え、バッテリーが続く限り回せるようになりました。
 
 
鐘ヶ江 : それによって作品が長くなったりしてるんですか?
 
 
立川 : いや実はそうでもないです。自分自身としてはずっと見ていればそれで満足するようなものなんですけど、やはり作品として出すからにはその時間は決まってきますね。
 
 
山形 : 回せるだけ回してみて、見返してみるとNGだったりもするんですか?
 
 
立川 : 逆になんか気がつくことの方が多いですね。画面で見ると全然違うんで、気がつかないことが色々見えてきたりして、そういう発見が一番面白いと思っています。むしろ中途半端に切ってしまうと後で後悔することの方が多いので、なるべく長く回すようにしています。
 
 
岡本 : その後には編集の手が加わるんですか? 伸ばしたり縮めたり切ったり。
 
 
立川 : 基本的にはワンテイク・ワンカットですね 。撮影時間はもう少し長いですが、その中から編集をしています。
 
 
岡本 : その間、ピントが合ったり合わなかったりだとか、カメラを左右にパンする様な操作をされていますがそれはどういった意図ですか?
 
 
立川 : 葉っぱが動いていくんですけど、それをオートフォーカスで撮ってたんで、自分の意思と関係なく勝手にああいったことが起きました。あと光が入ってきてフォーカスが光の方に行ったり。
 
 
鐘ヶ江 : そうしたカメラの振る舞いとは別に立川さんの作品は非常に音声がしっかりしていて、演出的な効果を持ってると思うんですよね。そうすることで単に撮ったものではなく、映像としての時間を保有していると感じます。音声についてはどう考えていますか?
 
 
立川 : 基本的には音も同時に取ってるのでそれが使えれば一番いいんですけど、使えない時は何かしら別の音を重ねることになります。例えば今日の映像であれば子供が周りをすごい走ってるんです。具体的な言葉とかも聞こえてきていて、そっちに気がいってしまう。
 
 
岡本 : その場の音を使う方がいいと考えるのはなぜですか?
 
 
立川 : 音にも場所性とかがあるような気がしてるんです。むしろ自分としては、音を重ねることで少しあざとい感じがしてしまいます。
 
 
小林 : 水槽と言ってましたが、なんか水の中に水があるみたいに見えていたんですけど、あれはどうなっているんですか?
 
 
立川 : 実はあれは逆さで、だから上の光は水槽の床面なんです。あの動きは見ると変で、本当は葉っぱはずっと下に落ちていくはずでなんですが、映像の中では上に上に上がっていく。
 
 
小林 : 動物園で撮影すると、仰っていた様に子供の声が入ったり、あるいはどんな動物の水槽なのかということがもうちょっと具体的に分かりそうな気がするんですけど、この映像はパンの繰り返しなども含めかなり抽象度が高いですよね。それはつまり、あるイメージに近づける意識から来るものという気がするんですが、その辺りはどうですか?
 
 
高嶋 : 小林さんの言う「イメージ」というのは、固定化しようとする傾向みたいなものなんですか?
 
 
小林 : ここにあるものじゃない何かに近づけようするものですね。例えば監督が役者に宮本武蔵を演じてくれと言った時に、監督の中には宮本武蔵の「イメージ」があって、役者にはその「イメージ」に近づけるように指示を出しますね? 立川さんの場合はそこに近づけようみたいなものがあるんですか ?
 
 
立川 : ないですね(笑)。これは逆さが良いとピンと来てそういった編集をしましたが、普段はあまりしません。
 
 
鐘ヶ江 : 先ほど小林さんが聞いたことは僕も気になっていました。実は僕は立川さんの別の上映会を見たことがあります。その会場ではスクリーンとなる紗幕が二枚と、プロジェクターが二台置いてありました。紗幕が二重になっていて、それぞれ一灯につき二つずつ像を映すので、四つの像が重なり合いながら投影される状況を作ります。こうした映像を複数化 するような扱い方は、編集において映像を反転させる操作に似たものではないのかな? と今のお話を聞きながら思いました。
 
 
小林 : 先ほど仰っていた様に、子供の声が入った時にそっちに引っ張られちゃう気がするっていうのは、映像の方にある何かしらの求めてる像があるから邪魔だということだと捉えたのですが、その時にどういったものを欲望しているのか、ということです。そう感じさせる図像的な強さがあるなと思ってぼーっと見てしまいました。
 
 
立川 : 「イメージ」と言えるかわかりませんが、非日常を求めてるかもしれないですね。逆に言えば、日常的に見えることを避ける様な意識があるのかもしれない。
 
 
高嶋 : そういう意味では、僕たちは「イメージ」派じゃなくて「画像」派なのかもしれないですね。過去のモノのある状態を再現するとはいうけど、見る側に、こことは別のどこかをイメージさせるという意識はあまりない。ただ、あらかじめ存在しているこの世界を映し取っているのが映像だ、という不文律には抗いたいと思っています。
 
 
岡本 : お話を聞いているうちに分かってきたのですが、小林さんの仰った「イメージ」というものは僕らがフィクションと呼んでいるものにすごく近い気がします。「画像」とは映像のことですね。映像とフィクションの関係性について扱うということは、「画像」と「イメージ」の関係について扱うということと言い換えられます。自分に引き寄せた言い方になってしまいますが、フィクションとは映像と映像の関係性であると思っています。あちらの映像からこちらの映像を見たとき、そこにフィクション、つまりイメージが発生するということです。(ステートメント2参照)
 僕の作品について、先ほどの小林さんのお話にお答えすると、確かに僕は「イメージ」を扱う意識があると思います。映画でいえば役ですね。例えば一つ目に上映した「イローナとベラ」という作品。あれは足の話です。一匹の犬と、一人の女性がいて、それらが歩き回る景色を、足をモチーフにして抽象化することで二本足、三本足、四本足と様々な「イメー ジ」= 役が見える。そうした時に、役ではない彼女らと、役となった彼らがどういった関係をもちえるのか、ということが関心としてありました。
 
 
 
- 実験とオルタナティブ -
 
 
岡本 : 山形さんにお会いしたら、聞いてみたいと思っていたことがあります。先日お話した時に、言葉の使い方に幅を設け、分けて捉えていると仰っていました。これは僕の解釈なんですが、そこでのお話というのが、上にジャーゴンとか批評的な語を交換する言葉があって、下に土着的なぺちゃくちゃした言葉があると。それらをハイとロウとした時、中間にミドルがあって、ご自身の制作ではミドルの言葉の使い方でやりたいことがある、という様なことだったと思うのですが、そのあたりのことについて詳しく聞かせていただけますか?
 
 
山形 : そうですね。例えば小林さんの作品では、僕は問答することが多いのですが、その時には割と見る人の代表みたいな感じで素朴に答えることが多いんです。でも何回もやってるうちに言葉の遣い方、外し方によって小林さんからこういう反応が返ってくるだろうという積み重ねみたいものが生まれきてしまう。そこでそれを忘れる技術や、自分なりの手法を作るということをだんだん考えるようになりました。
 
 
岡本 : 小林さんといい流れで喋れる方法を忘れておく、ということですか?
 
 
山形 : ものにした流れや癖はなるべく出さないようにしています。一方に知識みたいな言葉とか文脈や関係を捉えるような言葉があって、他方に自分や他人の癖、人の肉体や個性が現れるローカルな言葉があるとしたら、その中間の層のスカスカな言葉で話すということを心がけています。脚本を書く時もそういう意識です。ただ映画の脚本も書いたりもするのですが、core of bellsで映像を作るときと映画の脚本を書く時は映像に対する態度が少し違います。
 
 
鐘ヶ江 : core of bellsの活動について教えてください。
 
 
山形 : core of bellsは、ハードコアパンクバンドなんですけど、同時にジョン・ケージに端を発する挑発的なほど沈黙を取り入れた音楽のコンサートにも行っていました。全く現れ方としては真逆な音楽の様ですが、僕らの関心の持ち方は通じるものがあります。
 例えばハードコアパンクバンドとかは、作り込みすぎて平らな印象なことも多いんですよね。全部同じような調子の曲で、あと30分ずっと同じなんだろうなみたいな(笑) 。でも部分部分に能動的に反応していくことでかっこいいと感じたりして、またしばらくすると全部同じに聞こえて冷めるみたいな(笑)。
 それに対して、沈黙の多い実験音楽ってほとんどコントロールをしないんです。大体は、演奏してる人がその場で起こる出来事とか、時間をコントロールしようとするんですけど、特に僕らの行ってるライブとかはそれがすごい薄いものが多かった。むしろその間に雨が降ったことだったり、お客さんがトイレに入って帰って来たことだったり、音以外の要素の方が記憶に残っていたりする。
 そんな中で、退屈さとかっこよさを行ったり来たりするような観客のあり方や、それが演奏の要素としてOK な曲のデザインになっているということが両者に通ずるという発見がありまして、音じゃない要素を作曲に取り込むようになりました。
 ですが、やっているうちに今度は作曲者や演奏者から生じる趣きが気になり始めました。タイミングを分かっていたり経験が多かったりするとそういう雰囲気が出るんですね。そうした趣を排除できないかとここ数年は自分たちが出演せずに別のパフォーマーにやってもらったり、ステージ上でビニールシートなどをかぶって姿を消したりするようになりまし た。
 映像の話もすると、そういった実験音楽のコンサートは記録映像の撮り方で撮ることが多いんです。しかしその撮り方で、その時間に迫ったことになるのか、という疑問がありました。むしろカメラもある種の楽器のように使うことが出来ないだろうかというアイデアは、 今回の新作の映像制作に繋がっています。
 
 
岡本 : 色々聞きたいと思っていたことを先に答えていただきました。こうして説明を聞くと 「怪物さんと退屈くんの12カ月」ってすごく分かりやすいタイトルになっているんですね。
 もう一つ、重ねてお聞きしたいことがあります。例えば多くの舞台や映画を含めた時間芸術の中で、音楽って時間を救う、つまり楽しくするために使われることが多いと思うんですが、core of bellsのパフォーマンスでは同じことを何回も行ったり、一般的に音楽的と言える抑揚とは別の必然性からそれが構成されていて、むしろ時間を救わない音楽の使い方をする印象があります。音楽をどういったものとして扱っているのか教えてください。
 
 
山形 : そうですね。ハードコアのライブとか行くと、バンドの中で何もしない人とか平気でいるんです。じゃあ曲を書くのかというと書かないし、マイク持ってる方の手を振り回しちゃってボーカルが全然聞こえなかったりとか、そういう人が平気でいる(笑)。ステージの上でなにもしないなんて、演劇ではありえないじゃないですか。 社会性のレベルを合わせないと成り立たない。でも音楽はありなんですよね。そういう人がステージに出ちゃうような、いわゆる楽器演奏ではない行為とかも時間軸の中に配置されれば音楽なんじゃないか、あえて言うならばそういう感じですね。
 
 
岡本 : そうした意識が、カメラすらも一つの楽器として扱う映像作品につながるんですね。
 
 
山形 : 自分のしてることがよく分かってないまま、そう表現せざるを得なかったような人って過去に沢山いたんじゃないかと思います。例えばすごく見た目が毒っぽい食べ物とかってあるじゃないですか。それを大昔に食べた人がいて、これは毒じゃないけどあれは毒だって分かる。そのためにいったい何人死んでるんだよっていう......(笑)
 
 
岡本 : そうですよね(笑)
 
 
山形 : 例えば海を渡るにしても、環境的な問題もあるとは言え、島があるかないか分からないのに渡って行ったわけじゃないですか。音楽についてもそういうことがあったと思うんです。 音楽に限らず、歴史について考えたとき、映画の歴史とか、アートの歴史というものがあって、それって人間の歴史の中の割と狭い範囲でしかない。誰も見たことないところで変なパフォーマンスがあったりとか、いろいろな表現をしている人たちがいる。
 バンドで何もしてない人たちを見ると正史に残らなかった実験の片鱗が感じられるなと思うんです。音楽はそういう人たちが混ざっててもOKな場合がある。まあOK じゃないバンドもたくさんあるんですけど(笑)。それが面白いなと思います。だから自分達のやってることはどれも音楽だと思ってやっています。
 音楽の経験から得た時間感覚を、自分たちの中で再統合して表していると言ってもいい。小林さんの撮影の時も、楽器は出来ないですけど自分はミュージシャンだと思っていて、音楽の反射神経でやっているという感じです 。
 
 
岡本 : 山形さんが仰ったのはまさに実験とオルタナティブの関係として捉えられると思います。オルタナティブやるには、実験やらなくちゃいけない、むしろ実験の方が尊い。
 タイムテーブルを作るときに、似てる似てないみたいなことを意識したという話を先ほどしたんですけど、まず最初に似て見えてしまう、あるいは別物に見えてしまう、という現れのようなものがある。次にその現れからいくつかのものを選び取って、理念的に捉え直していく。これが実験とオルタナティブの関係ですね。お配りしたステートメント1でフィクションと判断の関わりとして扱っているのもこの関係です。
 
 
 
- 映像における時間 -
 
 
岡本 : 映像の具体的な話に少し戻してもいいですか?さきほど対象とそれを撮るカメラの扱いを別々の層でとらえるというお話がありました。小林さんと、高嶋さん中川さんの仕事について、比較しながら伺いたいことがあります。小林さんの編集はカットの中もそうですけど、それが隣のカットとどう関係するのか、ということを常に考えていると思うんですね。リニアにあったはずのものをバラバラにして、ノンリニアにしてしまうことで一般的に見受けられる出来事は途中で切れている。それに対して、高嶋さん中川さんの作品はカット間の関係ではなく、カットの中に注意が向けられているように見える。カットの中での出来事を造形するために、その終わりと始まりで緻密な編集が為されているという印象です。それぞれに伺いたいんですが、カットの中の出来事とカット間の関係についてはどう考えていますか?
 
 
高嶋 : この旧作は全体としてはそんなにまとまってないというか、編集が成功しているかどうかは正直怪しいなと思っていまして......(笑)。一応、制作プロセスとしては、フィッツ ジェラルドの『 崩壊( The Crack-up )』っていうエッセイ的な小説を参照していて、そこから幾文か抜き出し、それをシークエンスに当てはめて編集時の目安にしたりしていました。「くる日もくる日も、時刻はいつも午前3時」とか「自己がないというのは奇妙なものだ――ちょうど、小さな子どもが広大な空家に一人残されて、なんでも好きにできると知った途端、何もしたいことがないのを知ったというのと似ている」とか、気になるフレーズがちょこちょこ出てくるので。ただ最終的には、どのカットとどの一文が対応しているというレベルの関係性はなくなり、冒頭に要約的な二つの文を引用するにとどめました(「崩壊は打撃と同時に認識されるわけではなく、認識までの間に猶予期間がもうけられている」と 「あなた方は地の塩だ。だが、塩がその風味を失うなら、何によって塩づけられるだろう?」)。精神的な意味での「崩壊」がテーマになっているテキストですが、「砂糖に砂が混ぜられる」などといった物質的なものに置き換えている表現、特に感覚の麻痺状態をめぐる形象が刺激になった記憶があります。
 
 
中川 : 撮影では、実はこのSCOOLの近所、三鷹から吉祥寺付近を歩いて、その中でみつけたものを撮っています。一日中回って、でも使っているのはカットでいえば数秒、もっと短いものではコンマ何秒とか。長いカットは大体省いていて、短いカットをいくつも作って細かくつなげていくような編集になっています。
 なぜそういった作り方をしたかというと、制作のはじめに、落下運動を利用してカメラが上から下へと垂直に移動することをメインの撮影方法にすると決めたからです。そうすると必然的に、映像のショットは落下するあいだの短い時間ばかりになり、実際に徒歩で移動したことによる路上観察的な要素、道筋に沿った継起的で順序立った時間は最終的な映像からは半ば抜け落ちてしまうことになりました。今回改めて見返したわけですが、そこにあったはずの何かがすっぽりないというか、ちゃんと編集でつないだはずなのに、やはり唐突だったんだなと(笑)。
 この映像に写っている街のゴミや風化した構造物は、カメラに撮られようと撮られまいと、僕らが見つけようが見つけまいが、その場所の性質上、当然のようにそこにあるものだと思います。それらは落下や破損という出来事によってできた残り物です。しかし残り物であるということは、誰にも拾われず、風にも飛ばされずに留まりつづけた果てに現にある、 ということでもあります。つまり、出来事が起きたことの結果であると同時に、出来事が起こらなかった結果としてもあるものです。いわば、見なくてもあるし、あると思うようにしかないものとしてあるものという、ちっとも不思議に思えない不思議さが残り物にはある。 そうした視点に立つと、それを撮影する時間が1/2秒であるか一時間であるかは、根本的な違いではないのではないのか、とか思うのですが、そうはなかなか見ることができない。
 
 
高嶋 : この作品は、全体は7分くらいで、比較的せっかちな感じの編集になっているんですけど、その中にも素早くカットが切り変わっていくシークエンスと長回しのシーンがあります。細かいカット割りによるモンタージュとワンカット・ワンシーンの長回しという二項対立が映画にはあると思うんですが、それを等価に併用してみている。
 僕が最近興味があるのは、時間の問題です。例えば、言葉って読むのに絶対時間がかかりますよね。今、この話を喋るのにも聞くのにも時間がかかっている。じゃあ「1秒は1秒である」や「1分は60秒である」という言明、これはどうか。当たり前のことを言っているだけなんだけど、ルールを示しているある種の規範的な言明だとも捉えられて、言明それ自身には時間が含まれていないということができます。他方で、「時間は1秒間にきっかり1秒過ぎる」という言葉はどうか。先の例と同じようにトートロジカルに聞こえるけど、この文を読むときには時間が発生している。「過ぎる」っていう結構曖昧な動詞が介在することによって「1秒は1秒である」っていうのとは微妙に違う感覚、それを読むときの時間が組み込まれている。つまり、説明ではなく現象的な記述になっているということですね。「時間は1秒間にきっかり1秒過ぎる」は一見、無時間的な規範、ルールを言っているようでありながら、現象がそこに含まれている。そういう二重性がある。モンタージュか長回しかというよりも、無時間的な説明と時間が発生するような記述とを、できればひとつの作品の中で混ぜ込みたい。
 
 
小林 : さっき言っていた現象を省くっていうのは、時間を感じるような要素を省くっていうことなの?
 
 
高嶋 : そういうことですね。人は普通、変化を見ることでしか時間を感じない。変化の中に時間がある。でも落差が成り立つのは、変化がないこととの対照においてですよね。例えば、今回上映された立川さんの作品なんかも、ワンカット・ワンシーンだから持続性があるけど、時間が止まっているようなところもあるわけじゃないですか。ずっと目に見える変化がない、そんな中、黒い落ち葉のようなものがゆっくりと、しかも奇妙な動きで上昇していく。風に揺れているのか、でもそれにしては変だ。どういう理由からああいう動きになるのか、はじめはわからない。そこでいわば時間が生まれるわけです。つまり、均質に流れる時間が前提にないような場合に、どうやって時間が生じるのか、あるいは、どうやって時間を作るのかってことを考えると面白いのかなと思っています。
 
 
岡本 : 小林さんの編集のことも少し聞いてみたいんですが、小林さんはある時期までカット間の関係について、積極的な編集をしていたと思うんですけど、そのあと、映像をあまり切らなくなったじゃないですか。その変化はどういうものだったんですか? おそらくそれは、山形さんと一緒に仕事し始めたこととも関係があると思うんですけど。
 
 
小林 : この映像が11年くらい前なんですけど、山形さんと仕事し始めたのはその後なんですね。今日見てもらったような作品は、僕の中では手品やってる感じに近くて、僕は手品を披露するけど、相手は無関心で見てくれないみたいな。そのあとに、あまりに地味過ぎるということになって、もう少しサービスしようかなって.....(笑)映画だってみんな言葉使ってるじゃないかと。
 
 
 
- 映像の人称とロマン主義 -
 
 
高嶋 : 僕らもあまり言葉は使いませんね。文字は少し使うものの、声はほとんど使わないし、人の姿は一切出てこない。でも、ナレーションなど言葉を軸にした手法を避けて、いわゆるナラティブの要素がないと、なかなか作品として構造化するのが難しい。なんでも自由にやれて異質な要素を放り込めるけど、反面、すべてが恣意的に見えてしまったりもする。 そこで残るのが、小林さんがはじめに言っていた、「これは誰の目線なのか」という人称の問題ですよ。このフラフラと何を見ているのか定まらずに動き続けている退屈なカメラ、こいつはいったい誰なんだっていう。
 さきほど「実験」や「オルタナティブ」という言葉が出ましたが、僕はいわゆる「実験映画」と呼ばれるジャンルに、あまりよい印象を持っていないんです。特に日本の実験映画がそうなんですが、いろいろ見たことがない映像を作ろうとはしているんだけど、その試みが個人的な情緒や情念に還元される傾向が強い。劇映画やドキュメンタリーより、ナラティビティが希薄だったり曖昧であったりすればするほどその傾向が強くなる。つまり、ある種の私小説に近くなるんです。さっき言った風や木漏れ日などの些細な現象も、物理現象、光学現象であるはずのに、心象風景として受容されがちで、よくない意味でロマン主義化する傾向があると思います。
 
 
岡本 : 死者の視線、欲望がない視線ということですか?
 
 
高嶋 : いや、むしろ欲望だけがあるんですよ。「何かに乗り移りたい」と対象を探している欲望の視線だけがあって、でも同時に、何ものにも乗り移ることはできないという切断、諦観がある。だから絶えまなく彷徨っている。死者に等しいがゆえに「この」と呼べる場、確固たる身体がないわけです。いつまでも定まり切らないことで「乗り移りうる」という可能性だけは保持し続けようとする類の欲望ですね。それが徹底したロマン主義的な主体です。 何もできない、何をしてもひとたび確定されたことはすべて恣意的に感じる、だから動いても動かなくてもどちらでも同じ、というか全部麻痺している、そういう状態。ナラティビティを排除した映像を志向するとそうなりがちで、その内在的な批判から僕らの映像はス タートしているところがあります。
 その前提には、一般に流通し、了解されている物語全般に対する懐疑がある。例えば、さまざまな違いはあるにせよ、誰もが同じひとつの、唯一存在するこの現実に住まっているというのが何より強固な物語です。映像というメディアは所詮、この「唯一の現実」という物語を追認し、補完する鏡として使われているにすぎない。こうしたナラティビティの大本にあるような物語を批判しようとすると、逆説的な、主体なき主体が発生してしまう。一見何も欲望がなさそうに見えて、いずれどこかに欲望が定着することをあてにしている、遅延としての主体、執行猶予中の主体。
 例えば鐘ヶ江さんの作品はそういうところがモロにある。しかも、はじめから予告してるんですよ。「サスペンスの後のギャグを待つ」というセリフのあと、実際にギャグっぽいコミカルな音楽が流れて、映像自体のテイストもそれまでとは変わる。あらかじめ言葉で予告されていたこと、待っていたこと、つまり欲していたことがその通りになる。それまでは没入したい何かを求めて延々と彷徨っているんだけど、その彷徨をメタレベルに立って反転させたい欲望もはじめからあるわけです。この態度はロマン主義的イロニーに近い。大雑把かもしれませんが、そういった印象を持ちました。
 
 
鐘ヶ江 : 僕の興味は、与えられた条件、あるいは「こういうことが起こるよ」っていう予定みたいなのを聞かされた時に、それを享受する場、あるいは土台みたいなものがどう作れるのかということです。カメラが動くことで起こりうる何かに対して、準備していく、また準備していく、ということをどこかで悟らせるし、悟らせないような言葉をのせていく意識があります。
 
 
 
-質疑応答-
 
 
質問者 : 高嶋さんが、映像が恣意的であることを脱出する方法は主体性を取り戻すことしかないといった旨の発言をされていたと思うのですが、そのことについて、詳しく伺ってもいいですか?
 
 
高嶋 : おっしゃっているのは、恣意的なものつまり偶然的なものと必然的なものという対立に、主体性がどう関わってくるのか、ということなのかもしれませんが、僕としてはあまりその対立に主体を重ねたくないですね。「いかなる映像も恣意的でしかないから、主体性を取り戻す」。うーん、そんなこと言ったかな? 映像という鏡に映ったものはすべて、どれもこれも私だと捉えてもかまわない。けれど、何でも映る鏡であるはずなのに、それを見ているこの私の姿だけはなぜか映らない、それこそが恣意的に感じる理由だ。だから主体があれば(疎外されたこの私が取り戻されれば)、恣意的ではなく必然性がある、という話になるわけだけど、その理路はちょっと違うかなと思います。むしろ、どんなに脈絡がなく恣意的だと感じる作品でも、作者がいると知れば、みんなその意図を作者に聞こうとしますよね。そういう構図によって「主体」のポジションが要請されてしまうということではないでしょうか。
 
 
質問者 : むしろ主体こそ、あるいは個体の存在自体が既に恣意的なんじゃないか、という観点から伺ってみました。
 
 
高嶋 : そうですね。実際、生きていることそれ自体は主体的でも何でもないし、別段、主体がなくても生きていられますよね。幽霊のようにおぼつかない生であれ、死体のように麻痺した生であれ、生は生だ。現に生きていることと主体性があるかないかは別のはずです。 「主体を取り戻す」という時の「主体」は、意志を持っている者や必然性を作る者のことを指してますよね。でもそれとは異なる、まったく根拠のない次元で、生きている、ということがある。
 作品の話に折り返せば、ある作品が「主体的に見える」という判断は、どういった条件においてなされるのかという話だと思うんです。見るにしろ作るにしろ、必ず排除と選別があるわけですよね。映像なら特に編集の段階で。そういう意味では、絶対に作る側の主体性っていうものが、立ち現われてきてしまうというか、見出されてしまうわけです。
 しかし、もしも科学モデルで「実験」と言うならば、実験の前に必ずある種の制約、限定性が必要ですよね。森羅万象、世界が多様であることは当たり前なんだけど、何かを知りたいがために、わざわざ条件を設定して、限定するわけです。それは、一旦は世界を貧しくするというか、世界の無際限な可能性を排除していることでもあるんですよ。ある観点を作るっていうことは、やっぱり幾分かは排除することでもある。でもその中で、多様な世界の輪郭を抽出することが可能なはず、というのが実験芸術の態度だと思うんですよね(実験科学なら法則の探求になりますが)。実験という方法の限界ももちろんあるんですが、当初設定した枠組みを最大限活用して実験するからこそ、そこから逸脱するような実験結果も生じてくる。その限定の仕方に「作者」という主体を見い出すかどうかは、ほんとうは副次的な話にすぎないというか。
 
 
中川 : 実験の喩えで言うと、科学の場合では、実験結果が出たらその道具を忘れてしまう。 道具によってある事象から証拠が抽出されるのですが、論文などのテクストによって一旦証明がなされ、普遍的な解が構築されると、実験室はブラックボックス化してしまい、そこで使われていた道具はもう存在しないことになってしまう。
 でも実は、その道具の取り扱いこそが問題なのだと思います。この場合の「道具」というのは、カメラとかの具体的なモノだけではなく、もうちょっと広く方法のようなものも含みます。何かを取捨選択していく制作のような場所では、そうした道具が複数混在しています。というより、複数の道具をひとつにまとめあげているのが、おそらくは「制作現場」で あり「実験室」だということですね。
 このように広く「道具」を捉え直してみると、観察者と実験室、作者と制作環境という二項を隔てるものがそもそも存在するのか、ということが問われるのではないでしょうか。作る人間も道具の構成要素だとすると、それを使用し評価する「作者」という主体はいったいどこから生まれてくるのか。もうひとつ言えることは、たとえ制作でそのような枠組みが設定なされていなくても、一旦作品として世に発表されると、「道具」と「作者」は表裏一体なものとして現れてくるということです。そこで「作者」という主体が見出されるのは、作品の制作プロセスにアクセスできるのがその者以外に誰もいないという、とても消極的な理由によるものでしかないようにも思える。けれど、本当にそうなのか。そうした問いもまたあると思うのです。これで回答になっていますか?
 
 
質問者 : ありがとうございます。
 
 
鐘ヶ江 : 残念なことに、お時間が来てしまいました。登壇者の皆さん、会場の皆さん、この様な状況の中、本日は本当にありがとうございました。
 
 
 
(この文章は当日のトークを元に編集、改稿をしたものです)
2020年7月18日 東京、三鷹SCOOL
 

 
 
 
引込線/放射線2019 サテライト企画
『「~映像と斜陽」2020/07/18(土)上映後トークイベント』
 
登壇者:
小林耕平、高嶋晋一、立川清志楼、中川周、山形育弘(ゲスト)
司会:
岡本大河、鐘ヶ江歓一
 
 
 
鐘ヶ江:この上映は引込線/放射線2019というプロジェクトの中の、サテライト企画の一つとして企画されたものです。 見てもらうだけでは分からない部分も多いと思いますので、それぞれの作品や企画の意図などについてお話ができればということでトークイベントを企画しました。
 企画の鐘ヶ江と岡本が司会進行していきます。慣れていない部分もありますが、どうぞよろしくおねがいします。
 
(登壇者紹介、挨拶)
 
 
 
- 上映会について-
 
 
鐘ヶ江 : いろいろ配布物があるかと思うんですが、まず簡単に私たちが映像というものをどのように捉えてこういった上映会を企画したのかということを少しお話ししたいと思います。そのあと、ゲストの山形さんと上映会参加者の皆さんにお話を聞いていこうと思っています。 よろしくお願いします。
 
 
岡本 : まず、映像を使って考えられることを様々に検証、実験してみたいというのがこの企画の始まりでした。そのときに、映像というのは部屋に何個か並んでいるものを見るというあり方とは別に、並べて映像の時間の中で検証するということができるし、ある意味そちらの方が自然なのではないかと考えました。
 映像で考えるということは時間の中で考えるということであり、連続性の中で考えるということです。連続性の中で何と何が似てるのか、似てないのか。例えば、似てないはずのものが似て見えてしまうということが起きれば、それは映像において続きに見えるということです。タイムテーブルを組み、上映という形式をとったのはそのためです。
 
 
 鐘ヶ江 : 映像について、と同時に映像で何が考えられるかということですね。そうしたことに特化した上映会は意外と少ないのではないか、ということが僕らの問題意識としてありました。
 ところで、山形さんはcore of bellsというハードコアパンクバンドで活動をされていますね。最近は映像作品であったり、パフォーマンスであったり、いわゆるバンドの活動に限定しない形で音楽というものを展開し、実践されています。そういった視点の広げ方に僕は興味があって、今回の企画に合わせてお話を伺うことができればと思いました。
 上映会をご覧になってどうでしたか?
 
 
山形 : そうですね。一言で言うのは難しいのですが、 映像ってこれを見たらこれも見てくれ、とかこれとこれを覚えておいてくれ、みたいな説明的な圧を映像の外から感じることが多いような気がするんですけど、今回は割と映像だけを見ていられました。
 ご紹介いただいた様にcore of bellsはここ数年、映像作品を作っていて、人の作品を見ると何で映像を選んだのかなとか、どういうルールなんだろうなとか、あと何でこんなラストなんだろうなとか思いながら見ていました。
 関係性で言うと僕は小林耕平さんの作品に10年間ぐらい出演をしているのでよく知って います。あとcore of bellsの新作の撮影監督をやってもらっているのが中川さんで、興味深く拝見させてもらいました。
 
 
岡本 : 小林さんはどうでしたか?
 
 
小林 : 僕も一つ一つ面白かったです。ところで最近、家で映像を見る機会もあるけど、ほとんど飛ばしてみている。めんどくさくてね(笑)。それで最初、感染症のこともあるので、リンクを送ってもらって家で見ようと思ったんだけど、これはちょっと見れないなと思い、 この場に来て見ることにしました。
 今回こういった状況の中だけどオンラインでやる案はないの?と岡本さんに聞いたら、上映会を設けるという話をしていたので、こうやってやることに大きな意味があるのかなと思ったんですけど、そこら辺どのように考えてますか。
 
 
岡本 : 卑近な理由から挙げれば、小林さんが仰ったように、こういう風に拘束しないと人は映像をあまり見ないと思っていたからです。
 あと、映像って結局プロジェクションなりされる一定の演劇的な箱が必要じゃないですか。この上映会では特にそうした空間や映像の光そのものに言及する作品( 戸田祥子作「あなたの昼と夜」)もあったので、その辺りが死んでしまうと思い、オンラインでは難しいと考えていました。
 
 
小林 : 拘束しないと見れないじゃないですか?と同意を求められたけど、今YouTuberとかいて、ネットで映像は見れるというのが多く人の映像に対しての意見だと思うけど、ここで言ってる映像というのは、そうしたものとは違うんですか?例えば、家でネットとかで映像を見ていても、それはあまり映像経験じゃないということ?
 
 
岡本 : もちろん、それも一つの映像経験だと思います。ただ、配信の様な形で無限にばらまかれたものと、こうした時間を共有した空間での上映とは全く違う性質があると思っています。
 あと当然ですけど、映像ってあまりいろんなサイズになっていいと思っていなくて、ある程度の大きさは必要だろうと思っています。だから、配信をスマホとかで見るっていうのは全然違う経験かなと思います 。
 
 
 
- 画像とイメージ -
 
 
小林 : 映像って大きな言い方をすると世界に向けてカメラを向けるわけだけど、そのカメラの人称みたいなものを気にしながら見ていました。これは誰が撮っているんだろうということを。
 もう一つ、これは「イメージ」なのか「画像」なのかどっちなんだろうといったことも考えました。岡本さんの場合だともともと油絵を書いていて、かなり「イメージ」について考えているように思います。その一方、鐘ヶ江くんは一番最後のやつもそうだけど、この世界との関係を取り戻すような感じで僕は捉えたんだけど、そこに「イメージ」があるのかないのか分からない。でも明らかに岡本君の方はある。
 
 
岡本 : 「画像」と「イメージ」って何が違うんですか?
 
 
小林 : 「画像」の方が即物的なものを言っているかな。カメラで撮ったものと言う感じ。例えば中川さんと高嶋さんのやつは、カメラ自体も、モノとして扱うわけだけど、それが映すものについてどう考えているのか。その中で映像の持つ「イメージ」についてどのように考えているのか。
 
 
高嶋 : ある映像がその内に固有のイメージを持つかどうか以前に、映像が映像らしく見えるモチーフって、ある程度あらかじめ決まっていると思うんです。それは現象、例えば何気ない自然現象です。とりわけ、風がゴーッと吹いて木々がざわざわするとか、小川の水がさわさわ流れるとかいった、持続する時間を喚起させる現象。他には、これも現象の一種です が、鏡や水面、ガラスなどの反映、そうした透明なものに反射する光のかがやきなど。そういう現象、映像を映像らしく見せるモチーフは、今回上映された映像作品にも頻繁に出てきました。けれど僕らの作品は、そうした現象を撮るのを排除しているところがある。 キラッとした光や、徐々に姿を変えていく影のうつろいといったものを......。
 
 
中川 : いや、撮っているけどね(笑)。
 
 
高嶋 :(笑)これはまだ、そういったスタイルが明確に固まるちょっと前の作品だから、まあまだ残ってるんですけど、でも、そういった現象をわりと意図的に削って作っている。
 
 
中川 : この《 The Crack-up: Rebuild 》という作品は、以前「修復」をテーマにした展覧会があって、そこに出品したものです。そのテーマの通り修復について考えて作りました。もともとは今回のような上映会ではなく、展覧会でループ再生されることを前提にして作られたものです。
 僕も一年以上、この作品を見直していなかった。それで今、自分たちの映像を改めて見て思うのは、結局これのどこが修復なんだろうか、また修復と再現とは何が違うんだろうか、ということです。
 例えば絵画の場合なら、絵の具やキャンバスという具体的なモノがあって、それらを媒介にして何らかのイメージを表わす、あるいは再現する、という一般的な図式がありますよね。その場合、媒介するものと再現しようとするものとはモノとしての原理が異なり、その原理が異なるもののあいだで置き換えを成立させることが絵画制作だと言えます。
 対して映像はどうでしょうか。映像の場合は機械的につまり半ば無条件に、自動的に世界を再現しているとも言える。何かを再現するといっても、何を何に置換しているのか。もちろん映像の場合も、現象と映像とのあいだで置換作業を行っていると言えますが、その操作が自動化されているため、現象と等価なようにも思える。どこか曖昧です。それでは、再現することを目指すのではなく、修復しようとしてみたとしたら? そういうことを制作時に考えていたのだと思います。「修復」とは、再現のように「〇〇としてみなす」ことを条件としておらず、むしろ置換されてもなお置き換えきれないような物的証拠が残りつづけることなのではないか、と。
 
 
高嶋 : 一般に、修復の対象となるのはを何らかのモノ、物体です。では、そもそもモノとして残らない一過的な現象を修復するとしたら、どうやって修復することができるのか、という無茶な問題設定が、制作当時ありました。あるいは、作品タイトルとも関係しますが、 「壊れる( 崩壊 )」という現象を修復、再構築するとはどういうことなのか、という問いですね。映像が束の間生じた現象をとどめることに特化したメディアだとして、しかし「現象を修復する」ならば逆に、そうした現象は失われていなければならないわけです。失われていないものは修復できない。だから現象を省く。映像が当たり前に得意としていることを、ひとまずストップしてみる。
 どういうことかというと、例えば普通、落下する物体を撮ろうとしたらそれを追うように同じ速度でカメラも動きますよね。あるいは長回しではなくカットを割るなら、まず一つ目のカットで落ちる瞬間を捉え、次にその結果、落ちた後に破損したなら破損したその物体が映っているカットをつなぐ。こうしたやり方が、映像で現象や変化を捉えることだとされています。でもそうではなくて、もうすでにモノは壊れている。壊れて停止している。それは動かせない。地面にあるこの柿は潰れているが、潰れているのは木から落ちたからだろうと、それを見て僕らは修復というか推測しますよね。同じように、いわばカメラが失われた現象を推測的に修復する。その現象、木になっている柿が落ちて潰れるまでの様子を撮るのではなく、なぜかカメラのほうが落下する。カメラが落ちて停止した画面には、停止した潰れた柿が映っている。つまり柿の来歴をなぞっている。カメラの動き以外に現象はあまり起こらず、実際に動くのは主にカメラ、というわけです。カメラの機械的な再現性にさらに再現を重ねている、とも言えるかもしれない。
 
 
小林 : 図像的な結果と、カメラが落ちる現象を別の層で捉えて実践してるっていうこと?
 
 
高嶋 : そうですね。
 
 
小林 : 例えば映像の中で、ガシャンって何かが落ちた時に、ガラスの破片が映っていたけど、そのガラスはあらかじめ壊れていたもの?
 
 
高嶋 : 基本的にはそうです。そのカットでは、カメラが落下して、地面にあるガラスの破片が映し出されるまでに、別のモノがピューッと遠くに飛んでいったり、同時に(同録ではない)ガシャンという金属音がしたりと、いろいろ他の要素も入っているんですけど、ガラスが割れるまさにその瞬間が映っているわけではない。カメラが落ちるそのわずかな時に、それとは別の運動が介入し交差している、というようなカットです。
 
 
鐘ヶ江 : 高嶋さん中川さんがカメラの運動を執拗にコントロールしているのに対して、小林さんはカメラに対して何らかの、無作為性というか、別の役割を与えていたと思うんですね。あそこで撮られる対象となる小林さんと、カメラの関わりとか、力関係というものはどういうふうに考えていたんでしょうか?
 
 
小林 : あの映像を撮ってくれたのは、普段あまりカメラを回すことのない人なんです。でも写真を撮ってもすごくシャープな写真を撮るので、ものに対する関心が強い人で。撮影の時にはその人に”あまり僕に関心を向けないでください” という指示を出しました。ものへの関心が強い人に関心を向けないでくださいと言ったので結構混乱したようで、だから本人もよくわからずやっていると思う。それで、ちょっと見返した時に、これでいいの?と聞くので まだちょっと見すぎですね、みたいな(笑)。
 
 
岡本 : 加えてあの映像では、実はかなり恣意的な編集も挟み込まれていますね。他者との共同制作の様な形で、どこまでが作家のコントロールによるものかわからない様な作品のあり方は、のちの制作にもつながるものではないかと思ったのですが、そのあたりはどうですか?
 
 
小林 : 撮影してる側と、僕が目の前でうろうろして何かやってる側、二人それぞれの時間みたいなものがあって、編集はそこに三人目が現れる様な感じで捉えています。
 さっき「イメージ」という言い方をしたんですが、それは僕の中で欲望とか好奇心に近いものです。それを極端に少ない状態にする意識があります。
 
 
岡本 : 欲望が少ない状態ですか?
 
 
小林 : 例えば鐘ヶ江くんの作品とかは、そもそも世界に関心のない、欲望のない人の作品に見えた。つまり、世界に距離感を失った人がそうしたものを取り戻そうとして試行錯誤してる様子です。
 
 
山形 : ボケとツッコミが混在してるような、二回ボケてるけど一回しか突っ込まないみたいな(笑)。
 
 
小林 : でもそれがある意味では独り言にものすごく近い。僕はシステムみたいなものが構造的に分裂するように方法論的に作っているところがあるんだけども、でもこの映像は構造的に壊れてるんじゃなくて、鐘ヶ江君が壊れているんだという風に思ったんです。
 
 
鐘ヶ江 : まあ何かを撮ってやろうっていう意識もあるんですが、いつもああした撮れ味に なってしまうというところもあって......(笑)
 ところで、立川さんにもお話振っていこうかと思います。カメラのお話がありましたが、 立川さんカメラの扱いって、一方でモチーフを待ってるような受動的な態度を見せつつも、 他方どこか対象に対して関心があって能動的に撮ろうという姿勢も見られるように思います。撮影では、どういったことを考えているんですか?
 
 
立川 : 例えば今日の映像はワンカットなんですけど、基本長回しなので、回せるだけ回そうっていう意識があります。私はよく動物園に通ってるんですけど、子供が入って三脚に触ったりとか色々するんです。それに邪魔されないうちは、出来る限り回します。他は別にあまり考えていないです。
 
 
鐘ヶ江 : 回せるだけ回すというのは、カメラの機材の限界ということでもあるんですか?
 
 
立川 : 以前は一眼カメラの動画機能を使っていたので、15分で終わってしまうという限界がありました。しかし新しいものに買い替え、バッテリーが続く限り回せるようになりました。
 
 
鐘ヶ江 : それによって作品が長くなったりしてるんですか?
 
 
立川 : いや実はそうでもないです。自分自身としてはずっと見ていればそれで満足するようなものなんですけど、やはり作品として出すからにはその時間は決まってきますね。
 
 
山形 : 回せるだけ回してみて、見返してみるとNGだったりもするんですか?
 
 
立川 : 逆になんか気がつくことの方が多いですね。画面で見ると全然違うんで、気がつかないことが色々見えてきたりして、そういう発見が一番面白いと思っています。むしろ中途半端に切ってしまうと後で後悔することの方が多いので、なるべく長く回すようにしています。
 
 
岡本 : その後には編集の手が加わるんですか? 伸ばしたり縮めたり切ったり。
 
 
立川 : 基本的にはワンテイク・ワンカットですね 。撮影時間はもう少し長いですが、その中から編集をしています。
 
 
岡本 : その間、ピントが合ったり合わなかったりだとか、カメラを左右にパンする様な操作をされていますがそれはどういった意図ですか?
 
 
立川 : 葉っぱが動いていくんですけど、それをオートフォーカスで撮ってたんで、自分の意思と関係なく勝手にああいったことが起きました。あと光が入ってきてフォーカスが光の方に行ったり。
 
 
鐘ヶ江 : そうしたカメラの振る舞いとは別に立川さんの作品は非常に音声がしっかりしていて、演出的な効果を持ってると思うんですよね。そうすることで単に撮ったものではなく、映像としての時間を保有していると感じます。音声についてはどう考えていますか?
 
 
立川 : 基本的には音も同時に取ってるのでそれが使えれば一番いいんですけど、使えない時は何かしら別の音を重ねることになります。例えば今日の映像であれば子供が周りをすごい走ってるんです。具体的な言葉とかも聞こえてきていて、そっちに気がいってしまう。
 
 
岡本 : その場の音を使う方がいいと考えるのはなぜですか?
 
 
立川 : 音にも場所性とかがあるような気がしてるんです。むしろ自分としては、音を重ねることで少しあざとい感じがしてしまいます。
 
 
小林 : 水槽と言ってましたが、なんか水の中に水があるみたいに見えていたんですけど、あれはどうなっているんですか?
 
 
立川 : 実はあれは逆さで、だから上の光は水槽の床面なんです。あの動きは見ると変で、本当は葉っぱはずっと下に落ちていくはずでなんですが、映像の中では上に上に上がっていく。
 
 
小林 : 動物園で撮影すると、仰っていた様に子供の声が入ったり、あるいはどんな動物の水槽なのかということがもうちょっと具体的に分かりそうな気がするんですけど、この映像はパンの繰り返しなども含めかなり抽象度が高いですよね。それはつまり、あるイメージに近づける意識から来るものという気がするんですが、その辺りはどうですか?
 
 
高嶋 : 小林さんの言う「イメージ」というのは、固定化しようとする傾向みたいなものなんですか?
 
 
小林 : ここにあるものじゃない何かに近づけようするものですね。例えば監督が役者に宮本武蔵を演じてくれと言った時に、監督の中には宮本武蔵の「イメージ」があって、役者にはその「イメージ」に近づけるように指示を出しますね? 立川さんの場合はそこに近づけようみたいなものがあるんですか ?
 
 
立川 : ないですね(笑)。これは逆さが良いとピンと来てそういった編集をしましたが、普段はあまりしません。
 
 
鐘ヶ江 : 先ほど小林さんが聞いたことは僕も気になっていました。実は僕は立川さんの別の上映会を見たことがあります。その会場ではスクリーンとなる紗幕が二枚と、プロジェクターが二台置いてありました。紗幕が二重になっていて、それぞれ一灯につき二つずつ像を映すので、四つの像が重なり合いながら投影される状況を作ります。こうした映像を複数化 するような扱い方は、編集において映像を反転させる操作に似たものではないのかな? と今のお話を聞きながら思いました。
 
 
小林 : 先ほど仰っていた様に、子供の声が入った時にそっちに引っ張られちゃう気がするっていうのは、映像の方にある何かしらの求めてる像があるから邪魔だということだと捉えたのですが、その時にどういったものを欲望しているのか、ということです。そう感じさせる図像的な強さがあるなと思ってぼーっと見てしまいました。
 
 
立川 : 「イメージ」と言えるかわかりませんが、非日常を求めてるかもしれないですね。逆に言えば、日常的に見えることを避ける様な意識があるのかもしれない。
 
 
高嶋 : そういう意味では、僕たちは「イメージ」派じゃなくて「画像」派なのかもしれないですね。過去のモノのある状態を再現するとはいうけど、見る側に、こことは別のどこかをイメージさせるという意識はあまりない。ただ、あらかじめ存在しているこの世界を映し取っているのが映像だ、という不文律には抗いたいと思っています。
 
 
岡本 : お話を聞いているうちに分かってきたのですが、小林さんの仰った「イメージ」というものは僕らがフィクションと呼んでいるものにすごく近い気がします。「画像」とは映像のことですね。映像とフィクションの関係性について扱うということは、「画像」と「イメージ」の関係について扱うということと言い換えられます。自分に引き寄せた言い方になってしまいますが、フィクションとは映像と映像の関係性であると思っています。あちらの映像からこちらの映像を見たとき、そこにフィクション、つまりイメージが発生するということです。(ステートメント2参照)
 僕の作品について、先ほどの小林さんのお話にお答えすると、確かに僕は「イメージ」を扱う意識があると思います。映画でいえば役ですね。例えば一つ目に上映した「イローナとベラ」という作品。あれは足の話です。一匹の犬と、一人の女性がいて、それらが歩き回る景色を、足をモチーフにして抽象化することで二本足、三本足、四本足と様々な「イメー ジ」= 役が見える。そうした時に、役ではない彼女らと、役となった彼らがどういった関係をもちえるのか、ということが関心としてありました。
 
 
 
- 実験とオルタナティブ -
 
 
岡本 : 山形さんにお会いしたら、聞いてみたいと思っていたことがあります。先日お話した時に、言葉の使い方に幅を設け、分けて捉えていると仰っていました。これは僕の解釈なんですが、そこでのお話というのが、上にジャーゴンとか批評的な語を交換する言葉があって、下に土着的なぺちゃくちゃした言葉があると。それらをハイとロウとした時、中間にミドルがあって、ご自身の制作ではミドルの言葉の使い方でやりたいことがある、という様なことだったと思うのですが、そのあたりのことについて詳しく聞かせていただけますか?
 
 
山形 : そうですね。例えば小林さんの作品では、僕は問答することが多いのですが、その時には割と見る人の代表みたいな感じで素朴に答えることが多いんです。でも何回もやってるうちに言葉の遣い方、外し方によって小林さんからこういう反応が返ってくるだろうという積み重ねみたいものが生まれきてしまう。そこでそれを忘れる技術や、自分なりの手法を作るということをだんだん考えるようになりました。
 
 
岡本 : 小林さんといい流れで喋れる方法を忘れておく、ということですか?
 
 
山形 : ものにした流れや癖はなるべく出さないようにしています。一方に知識みたいな言葉とか文脈や関係を捉えるような言葉があって、他方に自分や他人の癖、人の肉体や個性が現れるローカルな言葉があるとしたら、その中間の層のスカスカな言葉で話すということを心がけています。脚本を書く時もそういう意識です。ただ映画の脚本も書いたりもするのですが、core of bellsで映像を作るときと映画の脚本を書く時は映像に対する態度が少し違います。
 
 
鐘ヶ江 : core of bellsの活動について教えてください。
 
 
山形 : core of bellsは、ハードコアパンクバンドなんですけど、同時にジョン・ケージに端を発する挑発的なほど沈黙を取り入れた音楽のコンサートにも行っていました。全く現れ方としては真逆な音楽の様ですが、僕らの関心の持ち方は通じるものがあります。
 例えばハードコアパンクバンドとかは、作り込みすぎて平らな印象なことも多いんですよね。全部同じような調子の曲で、あと30分ずっと同じなんだろうなみたいな(笑) 。でも部分部分に能動的に反応していくことでかっこいいと感じたりして、またしばらくすると全部同じに聞こえて冷めるみたいな(笑)。
 それに対して、沈黙の多い実験音楽ってほとんどコントロールをしないんです。大体は、演奏してる人がその場で起こる出来事とか、時間をコントロールしようとするんですけど、特に僕らの行ってるライブとかはそれがすごい薄いものが多かった。むしろその間に雨が降ったことだったり、お客さんがトイレに入って帰って来たことだったり、音以外の要素の方が記憶に残っていたりする。
 そんな中で、退屈さとかっこよさを行ったり来たりするような観客のあり方や、それが演奏の要素としてOK な曲のデザインになっているということが両者に通ずるという発見がありまして、音じゃない要素を作曲に取り込むようになりました。
 ですが、やっているうちに今度は作曲者や演奏者から生じる趣きが気になり始めました。タイミングを分かっていたり経験が多かったりするとそういう雰囲気が出るんですね。そうした趣を排除できないかとここ数年は自分たちが出演せずに別のパフォーマーにやってもらったり、ステージ上でビニールシートなどをかぶって姿を消したりするようになりまし た。
 映像の話もすると、そういった実験音楽のコンサートは記録映像の撮り方で撮ることが多いんです。しかしその撮り方で、その時間に迫ったことになるのか、という疑問がありました。むしろカメラもある種の楽器のように使うことが出来ないだろうかというアイデアは、 今回の新作の映像制作に繋がっています。
 
 
岡本 : 色々聞きたいと思っていたことを先に答えていただきました。こうして説明を聞くと 「怪物さんと退屈くんの12カ月」ってすごく分かりやすいタイトルになっているんですね。
 もう一つ、重ねてお聞きしたいことがあります。例えば多くの舞台や映画を含めた時間芸術の中で、音楽って時間を救う、つまり楽しくするために使われることが多いと思うんですが、core of bellsのパフォーマンスでは同じことを何回も行ったり、一般的に音楽的と言える抑揚とは別の必然性からそれが構成されていて、むしろ時間を救わない音楽の使い方をする印象があります。音楽をどういったものとして扱っているのか教えてください。
 
 
山形 : そうですね。ハードコアのライブとか行くと、バンドの中で何もしない人とか平気でいるんです。じゃあ曲を書くのかというと書かないし、マイク持ってる方の手を振り回しちゃってボーカルが全然聞こえなかったりとか、そういう人が平気でいる(笑)。ステージの上でなにもしないなんて、演劇ではありえないじゃないですか。 社会性のレベルを合わせないと成り立たない。でも音楽はありなんですよね。そういう人がステージに出ちゃうような、いわゆる楽器演奏ではない行為とかも時間軸の中に配置されれば音楽なんじゃないか、あえて言うならばそういう感じですね。
 
 
岡本 : そうした意識が、カメラすらも一つの楽器として扱う映像作品につながるんですね。
 
 
山形 : 自分のしてることがよく分かってないまま、そう表現せざるを得なかったような人って過去に沢山いたんじゃないかと思います。例えばすごく見た目が毒っぽい食べ物とかってあるじゃないですか。それを大昔に食べた人がいて、これは毒じゃないけどあれは毒だって分かる。そのためにいったい何人死んでるんだよっていう......(笑)
 
 
岡本 : そうですよね(笑)
 
 
山形 : 例えば海を渡るにしても、環境的な問題もあるとは言え、島があるかないか分からないのに渡って行ったわけじゃないですか。音楽についてもそういうことがあったと思うんです。 音楽に限らず、歴史について考えたとき、映画の歴史とか、アートの歴史というものがあって、それって人間の歴史の中の割と狭い範囲でしかない。誰も見たことないところで変なパフォーマンスがあったりとか、いろいろな表現をしている人たちがいる。
 バンドで何もしてない人たちを見ると正史に残らなかった実験の片鱗が感じられるなと思うんです。音楽はそういう人たちが混ざっててもOKな場合がある。まあOK じゃないバンドもたくさんあるんですけど(笑)。それが面白いなと思います。だから自分達のやってることはどれも音楽だと思ってやっています。
 音楽の経験から得た時間感覚を、自分たちの中で再統合して表していると言ってもいい。小林さんの撮影の時も、楽器は出来ないですけど自分はミュージシャンだと思っていて、音楽の反射神経でやっているという感じです 。
 
 
岡本 : 山形さんが仰ったのはまさに実験とオルタナティブの関係として捉えられると思います。オルタナティブやるには、実験やらなくちゃいけない、むしろ実験の方が尊い。
 タイムテーブルを作るときに、似てる似てないみたいなことを意識したという話を先ほどしたんですけど、まず最初に似て見えてしまう、あるいは別物に見えてしまう、という現れのようなものがある。次にその現れからいくつかのものを選び取って、理念的に捉え直していく。これが実験とオルタナティブの関係ですね。お配りしたステートメント1でフィクションと判断の関わりとして扱っているのもこの関係です。
 
 
 
- 映像における時間 -
 
 
岡本 : 映像の具体的な話に少し戻してもいいですか?さきほど対象とそれを撮るカメラの扱いを別々の層でとらえるというお話がありました。小林さんと、高嶋さん中川さんの仕事について、比較しながら伺いたいことがあります。小林さんの編集はカットの中もそうですけど、それが隣のカットとどう関係するのか、ということを常に考えていると思うんですね。リニアにあったはずのものをバラバラにして、ノンリニアにしてしまうことで一般的に見受けられる出来事は途中で切れている。それに対して、高嶋さん中川さんの作品はカット間の関係ではなく、カットの中に注意が向けられているように見える。カットの中での出来事を造形するために、その終わりと始まりで緻密な編集が為されているという印象です。それぞれに伺いたいんですが、カットの中の出来事とカット間の関係についてはどう考えていますか?
 
 
高嶋 : この旧作は全体としてはそんなにまとまってないというか、編集が成功しているかどうかは正直怪しいなと思っていまして......(笑)。一応、制作プロセスとしては、フィッツ ジェラルドの『 崩壊( The Crack-up )』っていうエッセイ的な小説を参照していて、そこから幾文か抜き出し、それをシークエンスに当てはめて編集時の目安にしたりしていました。「くる日もくる日も、時刻はいつも午前3時」とか「自己がないというのは奇妙なものだ――ちょうど、小さな子どもが広大な空家に一人残されて、なんでも好きにできると知った途端、何もしたいことがないのを知ったというのと似ている」とか、気になるフレーズがちょこちょこ出てくるので。ただ最終的には、どのカットとどの一文が対応しているというレベルの関係性はなくなり、冒頭に要約的な二つの文を引用するにとどめました(「崩壊は打撃と同時に認識されるわけではなく、認識までの間に猶予期間がもうけられている」と 「あなた方は地の塩だ。だが、塩がその風味を失うなら、何によって塩づけられるだろう?」)。精神的な意味での「崩壊」がテーマになっているテキストですが、「砂糖に砂が混ぜられる」などといった物質的なものに置き換えている表現、特に感覚の麻痺状態をめぐる形象が刺激になった記憶があります。
 
 
中川 : 撮影では、実はこのSCOOLの近所、三鷹から吉祥寺付近を歩いて、その中でみつけたものを撮っています。一日中回って、でも使っているのはカットでいえば数秒、もっと短いものではコンマ何秒とか。長いカットは大体省いていて、短いカットをいくつも作って細かくつなげていくような編集になっています。
 なぜそういった作り方をしたかというと、制作のはじめに、落下運動を利用してカメラが上から下へと垂直に移動することをメインの撮影方法にすると決めたからです。そうすると必然的に、映像のショットは落下するあいだの短い時間ばかりになり、実際に徒歩で移動したことによる路上観察的な要素、道筋に沿った継起的で順序立った時間は最終的な映像からは半ば抜け落ちてしまうことになりました。今回改めて見返したわけですが、そこにあったはずの何かがすっぽりないというか、ちゃんと編集でつないだはずなのに、やはり唐突だったんだなと(笑)。
 この映像に写っている街のゴミや風化した構造物は、カメラに撮られようと撮られまいと、僕らが見つけようが見つけまいが、その場所の性質上、当然のようにそこにあるものだと思います。それらは落下や破損という出来事によってできた残り物です。しかし残り物であるということは、誰にも拾われず、風にも飛ばされずに留まりつづけた果てに現にある、 ということでもあります。つまり、出来事が起きたことの結果であると同時に、出来事が起こらなかった結果としてもあるものです。いわば、見なくてもあるし、あると思うようにしかないものとしてあるものという、ちっとも不思議に思えない不思議さが残り物にはある。 そうした視点に立つと、それを撮影する時間が1/2秒であるか一時間であるかは、根本的な違いではないのではないのか、とか思うのですが、そうはなかなか見ることができない。
 
 
高嶋 : この作品は、全体は7分くらいで、比較的せっかちな感じの編集になっているんですけど、その中にも素早くカットが切り変わっていくシークエンスと長回しのシーンがあります。細かいカット割りによるモンタージュとワンカット・ワンシーンの長回しという二項対立が映画にはあると思うんですが、それを等価に併用してみている。
 僕が最近興味があるのは、時間の問題です。例えば、言葉って読むのに絶対時間がかかりますよね。今、この話を喋るのにも聞くのにも時間がかかっている。じゃあ「1秒は1秒である」や「1分は60秒である」という言明、これはどうか。当たり前のことを言っているだけなんだけど、ルールを示しているある種の規範的な言明だとも捉えられて、言明それ自身には時間が含まれていないということができます。他方で、「時間は1秒間にきっかり1秒過ぎる」という言葉はどうか。先の例と同じようにトートロジカルに聞こえるけど、この文を読むときには時間が発生している。「過ぎる」っていう結構曖昧な動詞が介在することによって「1秒は1秒である」っていうのとは微妙に違う感覚、それを読むときの時間が組み込まれている。つまり、説明ではなく現象的な記述になっているということですね。「時間は1秒間にきっかり1秒過ぎる」は一見、無時間的な規範、ルールを言っているようでありながら、現象がそこに含まれている。そういう二重性がある。モンタージュか長回しかというよりも、無時間的な説明と時間が発生するような記述とを、できればひとつの作品の中で混ぜ込みたい。
 
 
小林 : さっき言っていた現象を省くっていうのは、時間を感じるような要素を省くっていうことなの?
 
 
高嶋 : そういうことですね。人は普通、変化を見ることでしか時間を感じない。変化の中に時間がある。でも落差が成り立つのは、変化がないこととの対照においてですよね。例えば、今回上映された立川さんの作品なんかも、ワンカット・ワンシーンだから持続性があるけど、時間が止まっているようなところもあるわけじゃないですか。ずっと目に見える変化がない、そんな中、黒い落ち葉のようなものがゆっくりと、しかも奇妙な動きで上昇していく。風に揺れているのか、でもそれにしては変だ。どういう理由からああいう動きになるのか、はじめはわからない。そこでいわば時間が生まれるわけです。つまり、均質に流れる時間が前提にないような場合に、どうやって時間が生じるのか、あるいは、どうやって時間を作るのかってことを考えると面白いのかなと思っています。
 
 
岡本 : 小林さんの編集のことも少し聞いてみたいんですが、小林さんはある時期までカット間の関係について、積極的な編集をしていたと思うんですけど、そのあと、映像をあまり切らなくなったじゃないですか。その変化はどういうものだったんですか? おそらくそれは、山形さんと一緒に仕事し始めたこととも関係があると思うんですけど。
 
 
小林 : この映像が11年くらい前なんですけど、山形さんと仕事し始めたのはその後なんですね。今日見てもらったような作品は、僕の中では手品やってる感じに近くて、僕は手品を披露するけど、相手は無関心で見てくれないみたいな。そのあとに、あまりに地味過ぎるということになって、もう少しサービスしようかなって.....(笑)映画だってみんな言葉使ってるじゃないかと。
 
 
 
- 映像の人称とロマン主義 -
 
 
高嶋 : 僕らもあまり言葉は使いませんね。文字は少し使うものの、声はほとんど使わないし、人の姿は一切出てこない。でも、ナレーションなど言葉を軸にした手法を避けて、いわゆるナラティブの要素がないと、なかなか作品として構造化するのが難しい。なんでも自由にやれて異質な要素を放り込めるけど、反面、すべてが恣意的に見えてしまったりもする。 そこで残るのが、小林さんがはじめに言っていた、「これは誰の目線なのか」という人称の問題ですよ。このフラフラと何を見ているのか定まらずに動き続けている退屈なカメラ、こいつはいったい誰なんだっていう。
 さきほど「実験」や「オルタナティブ」という言葉が出ましたが、僕はいわゆる「実験映画」と呼ばれるジャンルに、あまりよい印象を持っていないんです。特に日本の実験映画がそうなんですが、いろいろ見たことがない映像を作ろうとはしているんだけど、その試みが個人的な情緒や情念に還元される傾向が強い。劇映画やドキュメンタリーより、ナラティビティが希薄だったり曖昧であったりすればするほどその傾向が強くなる。つまり、ある種の私小説に近くなるんです。さっき言った風や木漏れ日などの些細な現象も、物理現象、光学現象であるはずのに、心象風景として受容されがちで、よくない意味でロマン主義化する傾向があると思います。
 
 
岡本 : 死者の視線、欲望がない視線ということですか?
 
 
高嶋 : いや、むしろ欲望だけがあるんですよ。「何かに乗り移りたい」と対象を探している欲望の視線だけがあって、でも同時に、何ものにも乗り移ることはできないという切断、諦観がある。だから絶えまなく彷徨っている。死者に等しいがゆえに「この」と呼べる場、確固たる身体がないわけです。いつまでも定まり切らないことで「乗り移りうる」という可能性だけは保持し続けようとする類の欲望ですね。それが徹底したロマン主義的な主体です。 何もできない、何をしてもひとたび確定されたことはすべて恣意的に感じる、だから動いても動かなくてもどちらでも同じ、というか全部麻痺している、そういう状態。ナラティビティを排除した映像を志向するとそうなりがちで、その内在的な批判から僕らの映像はス タートしているところがあります。
 その前提には、一般に流通し、了解されている物語全般に対する懐疑がある。例えば、さまざまな違いはあるにせよ、誰もが同じひとつの、唯一存在するこの現実に住まっているというのが何より強固な物語です。映像というメディアは所詮、この「唯一の現実」という物語を追認し、補完する鏡として使われているにすぎない。こうしたナラティビティの大本にあるような物語を批判しようとすると、逆説的な、主体なき主体が発生してしまう。一見何も欲望がなさそうに見えて、いずれどこかに欲望が定着することをあてにしている、遅延としての主体、執行猶予中の主体。
 例えば鐘ヶ江さんの作品はそういうところがモロにある。しかも、はじめから予告してるんですよ。「サスペンスの後のギャグを待つ」というセリフのあと、実際にギャグっぽいコミカルな音楽が流れて、映像自体のテイストもそれまでとは変わる。あらかじめ言葉で予告されていたこと、待っていたこと、つまり欲していたことがその通りになる。それまでは没入したい何かを求めて延々と彷徨っているんだけど、その彷徨をメタレベルに立って反転させたい欲望もはじめからあるわけです。この態度はロマン主義的イロニーに近い。大雑把かもしれませんが、そういった印象を持ちました。
 
 
鐘ヶ江 : 僕の興味は、与えられた条件、あるいは「こういうことが起こるよ」っていう予定みたいなのを聞かされた時に、それを享受する場、あるいは土台みたいなものがどう作れるのかということです。カメラが動くことで起こりうる何かに対して、準備していく、また準備していく、ということをどこかで悟らせるし、悟らせないような言葉をのせていく意識があります。
 
 
 
-質疑応答-
 
 
質問者 : 高嶋さんが、映像が恣意的であることを脱出する方法は主体性を取り戻すことしかないといった旨の発言をされていたと思うのですが、そのことについて、詳しく伺ってもいいですか?
 
 
高嶋 : おっしゃっているのは、恣意的なものつまり偶然的なものと必然的なものという対立に、主体性がどう関わってくるのか、ということなのかもしれませんが、僕としてはあまりその対立に主体を重ねたくないですね。「いかなる映像も恣意的でしかないから、主体性を取り戻す」。うーん、そんなこと言ったかな? 映像という鏡に映ったものはすべて、どれもこれも私だと捉えてもかまわない。けれど、何でも映る鏡であるはずなのに、それを見ているこの私の姿だけはなぜか映らない、それこそが恣意的に感じる理由だ。だから主体があれば(疎外されたこの私が取り戻されれば)、恣意的ではなく必然性がある、という話になるわけだけど、その理路はちょっと違うかなと思います。むしろ、どんなに脈絡がなく恣意的だと感じる作品でも、作者がいると知れば、みんなその意図を作者に聞こうとしますよね。そういう構図によって「主体」のポジションが要請されてしまうということではないでしょうか。
 
 
質問者 : むしろ主体こそ、あるいは個体の存在自体が既に恣意的なんじゃないか、という観点から伺ってみました。
 
 
高嶋 : そうですね。実際、生きていることそれ自体は主体的でも何でもないし、別段、主体がなくても生きていられますよね。幽霊のようにおぼつかない生であれ、死体のように麻痺した生であれ、生は生だ。現に生きていることと主体性があるかないかは別のはずです。 「主体を取り戻す」という時の「主体」は、意志を持っている者や必然性を作る者のことを指してますよね。でもそれとは異なる、まったく根拠のない次元で、生きている、ということがある。
 作品の話に折り返せば、ある作品が「主体的に見える」という判断は、どういった条件においてなされるのかという話だと思うんです。見るにしろ作るにしろ、必ず排除と選別があるわけですよね。映像なら特に編集の段階で。そういう意味では、絶対に作る側の主体性っていうものが、立ち現われてきてしまうというか、見出されてしまうわけです。
 しかし、もしも科学モデルで「実験」と言うならば、実験の前に必ずある種の制約、限定性が必要ですよね。森羅万象、世界が多様であることは当たり前なんだけど、何かを知りたいがために、わざわざ条件を設定して、限定するわけです。それは、一旦は世界を貧しくするというか、世界の無際限な可能性を排除していることでもあるんですよ。ある観点を作るっていうことは、やっぱり幾分かは排除することでもある。でもその中で、多様な世界の輪郭を抽出することが可能なはず、というのが実験芸術の態度だと思うんですよね(実験科学なら法則の探求になりますが)。実験という方法の限界ももちろんあるんですが、当初設定した枠組みを最大限活用して実験するからこそ、そこから逸脱するような実験結果も生じてくる。その限定の仕方に「作者」という主体を見い出すかどうかは、ほんとうは副次的な話にすぎないというか。
 
 
中川 : 実験の喩えで言うと、科学の場合では、実験結果が出たらその道具を忘れてしまう。 道具によってある事象から証拠が抽出されるのですが、論文などのテクストによって一旦証明がなされ、普遍的な解が構築されると、実験室はブラックボックス化してしまい、そこで使われていた道具はもう存在しないことになってしまう。
 でも実は、その道具の取り扱いこそが問題なのだと思います。この場合の「道具」というのは、カメラとかの具体的なモノだけではなく、もうちょっと広く方法のようなものも含みます。何かを取捨選択していく制作のような場所では、そうした道具が複数混在しています。というより、複数の道具をひとつにまとめあげているのが、おそらくは「制作現場」で あり「実験室」だということですね。
 このように広く「道具」を捉え直してみると、観察者と実験室、作者と制作環境という二項を隔てるものがそもそも存在するのか、ということが問われるのではないでしょうか。作る人間も道具の構成要素だとすると、それを使用し評価する「作者」という主体はいったいどこから生まれてくるのか。もうひとつ言えることは、たとえ制作でそのような枠組みが設定なされていなくても、一旦作品として世に発表されると、「道具」と「作者」は表裏一体なものとして現れてくるということです。そこで「作者」という主体が見出されるのは、作品の制作プロセスにアクセスできるのがその者以外に誰もいないという、とても消極的な理由によるものでしかないようにも思える。けれど、本当にそうなのか。そうした問いもまたあると思うのです。これで回答になっていますか?
 
 
質問者 : ありがとうございます。
 
 
鐘ヶ江 : 残念なことに、お時間が来てしまいました。登壇者の皆さん、会場の皆さん、この様な状況の中、本日は本当にありがとうございました。
 
 
 
(この文章は当日のトークを元に編集、改稿をしたものです)
2020年7月18日 東京、三鷹SCOOL