福島第一原子力発電所事故での爆発は、文化とテクノロジーが生み出す「人工物」という観念の下部で、人間のコントロールを超えた物理的なプロセスが着実に進行している事実を示した出来事だった。溶解し、ひび割れ、煙を上げた原子力発電所は、どんなに高度なテクノロジーによって統御された人工物もその物理的本性においては自然物であることを象徴的に示している。すべての人工物は、非自然物ではあり得ないし、早かれ遅かれ人工物としての仮面は剥がれ、自然物に回帰していく運命にある。人間が創造したもの=人工物という概念が人間主義的な幻想にすぎないことが明らかになる時代においては、芸術の実践もまた「人工物」「作品」「創造」といった上部構造に留まるのではなく、その下部構造へも目を向け、アプローチしていかなくてはならない。芸術を創造と発明の原理としてではなく、批評と発見の原理として実践していかなくてはならないのだ。
 
引込線は「表現者の原点に還って作品活動のできる場をつくること」を主旨とした自主企画の展覧会として2008年より活動してきた。その背景には、バブル期以後、市場の原理に侵食されていった美術と批評の自律性への危機意識があった。資本主義の運動に対抗しうる自立した表現主体の再構築が目指されたのだ。しかしバブル期は、マルクス主義やケインズ主義が破綻して新自由主義が台頭していった時代でもある。つまり、資本の目的なき自己増殖運動を前にして、人間が意図的に経済活動を統制し得るという人間主義的理念の破綻が明らかになった時代だ。人間が主体的に世界や社会を創造し、歴史を動かしていくというフランス革命以降の人間主義は破綻しつつある。前衛芸術、近代デザイン、共産主義といった歴史プロジェクトが破綻し、ポスト歴史的な時代と言われる現在から振り返れば、フランス革命は市民革命というより資本主義革命であり、近代とは市場原理の一貫した成長の歴史だったと言わざるを得ない。いまやグローバル化した資本の運動に批評的に対峙するには、人間という観念にだけ依存しているわけにはいかない。より基礎的で物理的な諸力を利用していかなくてはならないのだ。従来の「引込線」に付け加えられた「放射線」という言葉は、そうした非人間的な物理的力を象徴的に示している。
 
今回の〈引込線/放射線〉の会場となるのは、廃園となった市立所沢幼稚園だ。私たちはその壁に絵をかけたり床に彫刻を置いたりする前に、その空間を規定する壁や床そのものに目を向け、廃園という場をつくり出した下部構造に目を向けた。ここに廃園という構築物を生み出した作者は誰だろうか?煙を上げる発電所が人工物としての仮面を失った自然物だとすれば、廃園もまた超人間的な構築物だ。それを生み出した要素のひとつには、社会を規定する最も基本的な下部構造である人口動態がある。市立所沢幼稚園は第二次ベビーブームの人口増加に対応すべく1972年に開園した。しかし日本人の出生率は低下し続け、当時予想されていた第三次ベビーブームは幻に終わった。そして日本の人口は2004年をピークに減少に転じた。おそらく災害や戦争での一時的な人口減少をのぞくと、日本の人口の減少はこの数万年間ではじめての大事件だと考えられる。
そして市立所沢幼稚園は、ちょうど住宅街と田園地帯の境界に位置している。大きな地図で見ると、そこは東京圏の都市の末端に位置する事がわかる。つまりそこは、十七世紀の江戸期から拡大の一途をたどって、世界一の規模と言われるまでに巨大化した都市の成長が、限界を迎えた地点でもあるのだ。近代の都市は鉄道に沿って拡張し、駅によって規定された空間を中心に規定されている。もう一つの会場、所沢駅近くの線路と住宅展示場に囲まれた廃ビルもまた、都市開発と衰退の間に形成された場所だと言えるだろう。
 
そうした下部構造の変化は否応なく歴史を動かしていく。そして芸術文化もまた変化を迫られている。今回の〈引込線/放射線〉は、こうした時代に対するひとつの回答としてある。「表現者の原点に還って作品活動のできる場」は、美術館や高層ビル、あるいはスタジアムといったような大資本によって創造される場ではない。衰退する都市の残骸や空き地として現れる狭間を、仮設的な場とすること。土を踏み固め、深く杭を打込み、高い壁を建てるのではなく、むしろ壁を解体し、杭を抜き去り、土を揺るがすこと。物理的諸力を組織し、交通網や建築物によって一元的に規定された場を批判し、多元的な場へと解体すること。表現の場は絵や彫刻、インスタレーション、パフォーマンスの連鎖によって流動的につくられるのだ。そうした試みとして、今回の「サテライト」「ウェブサイト」「書籍」があり、また「ビル」は解体作業として展示され、「幼稚園」では風化の風が吹くだろう。
[K. M. ]
 
《ひとつではなく、複数のステイトメントを掲げ、散らす》2019、〈引込線/放射線〉実行委員会
 
 
 
 
 

 
 
 
福島第一原子力発電所事故での爆発は、文化とテクノロジーが生み出す「人工物」という観念の下部で、人間のコントロールを超えた物理的なプロセスが着実に進行している事実を示した出来事だった。溶解し、ひび割れ、煙を上げた原子力発電所は、どんなに高度なテクノロジーによって統御された人工物もその物理的本性においては自然物であることを象徴的に示している。すべての人工物は、非自然物ではあり得ないし、早かれ遅かれ人工物としての仮面は剥がれ、自然物に回帰していく運命にある。人間が創造したもの=人工物という概念が人間主義的な幻想にすぎないことが明らかになる時代においては、芸術の実践もまた「人工物」「作品」「創造」といった上部構造に留まるのではなく、その下部構造へも目を向け、アプローチしていかなくてはならない。芸術を創造と発明の原理としてではなく、批評と発見の原理として実践していかなくてはならないのだ。
 
引込線は「表現者の原点に還って作品活動のできる場をつくること」を主旨とした自主企画の展覧会として2008年より活動してきた。その背景には、バブル期以後、市場の原理に侵食されていった美術と批評の自律性への危機意識があった。資本主義の運動に対抗しうる自立した表現主体の再構築が目指されたのだ。しかしバブル期は、マルクス主義やケインズ主義が破綻して新自由主義が台頭していった時代でもある。つまり、資本の目的なき自己増殖運動を前にして、人間が意図的に経済活動を統制し得るという人間主義的理念の破綻が明らかになった時代だ。人間が主体的に世界や社会を創造し、歴史を動かしていくというフランス革命以降の人間主義は破綻しつつある。前衛芸術、近代デザイン、共産主義といった歴史プロジェクトが破綻し、ポスト歴史的な時代と言われる現在から振り返れば、フランス革命は市民革命というより資本主義革命であり、近代とは市場原理の一貫した成長の歴史だったと言わざるを得ない。いまやグローバル化した資本の運動に批評的に対峙するには、人間という観念にだけ依存しているわけにはいかない。より基礎的で物理的な諸力を利用していかなくてはならないのだ。従来の「引込線」に付け加えられた「放射線」という言葉は、そうした非人間的な物理的力を象徴的に示している。
 
今回の〈引込線/放射線〉の会場となるのは、廃園となった市立所沢幼稚園だ。私たちはその壁に絵をかけたり床に彫刻を置いたりする前に、その空間を規定する壁や床そのものに目を向け、廃園という場をつくり出した下部構造に目を向けた。ここに廃園という構築物を生み出した作者は誰だろうか?煙を上げる発電所が人工物としての仮面を失った自然物だとすれば、廃園もまた超人間的な構築物だ。それを生み出した要素のひとつには、社会を規定する最も基本的な下部構造である人口動態がある。市立所沢幼稚園は第二次ベビーブームの人口増加に対応すべく1972年に開園した。しかし日本人の出生率は低下し続け、当時予想されていた第三次ベビーブームは幻に終わった。そして日本の人口は2004年をピークに減少に転じた。おそらく災害や戦争での一時的な人口減少をのぞくと、日本の人口の減少はこの数万年間ではじめての大事件だと考えられる。
そして市立所沢幼稚園は、ちょうど住宅街と田園地帯の境界に位置している。大きな地図で見ると、そこは東京圏の都市の末端に位置する事がわかる。つまりそこは、十七世紀の江戸期から拡大の一途をたどって、世界一の規模と言われるまでに巨大化した都市の成長が、限界を迎えた地点でもあるのだ。近代の都市は鉄道に沿って拡張し、駅によって規定された空間を中心に規定されている。もう一つの会場、所沢駅近くの線路と住宅展示場に囲まれた廃ビルもまた、都市開発と衰退の間に形成された場所だと言えるだろう。
 
そうした下部構造の変化は否応なく歴史を動かしていく。そして芸術文化もまた変化を迫られている。今回の〈引込線/放射線〉は、こうした時代に対するひとつの回答としてある。「表現者の原点に還って作品活動のできる場」は、美術館や高層ビル、あるいはスタジアムといったような大資本によって創造される場ではない。衰退する都市の残骸や空き地として現れる狭間を、仮設的な場とすること。土を踏み固め、深く杭を打込み、高い壁を建てるのではなく、むしろ壁を解体し、杭を抜き去り、土を揺るがすこと。物理的諸力を組織し、交通網や建築物によって一元的に規定された場を批判し、多元的な場へと解体すること。表現の場は絵や彫刻、インスタレーション、パフォーマンスの連鎖によって流動的につくられるのだ。そうした試みとして、今回の「サテライト」「ウェブサイト」「書籍」があり、また「ビル」は解体作業として展示され、「幼稚園」では風化の風が吹くだろう。
[K. M. ]
 
《ひとつではなく、複数のステイトメントを掲げ、散らす》2019、〈引込線/放射線〉実行委員会