ひとつの物語や価値判断に巻き取られることなく、すべてのわたしたちが「個」として複層的な表現を行うには、そしてその経験を鑑賞者と共有するためには、どのような方法を取ればよいだろうか。
日々立ち現れる新しい問題に、ひとつの身体で向きあうことは困難である。わたしたちの思考のキャパシティは、次々と話題を変えるバラエティ番組のような時間感覚にほとんど限定されている。大衆的な熱狂から距離を置くことは誰にとっても容易ではない。だが、パッケージ化されて提供される消費的な物語に対し、ひとりひとりが矛盾や異なる考えを孕んだ複層的・複数的な物語を持ち、結末への道筋にいくつもの迂回と緩慢な時間を挟むことができれば、それは大きな物語に抗する自律的な方法となり得るのではないか。
このような複層的な設えを思案するわたし(たち)は、複数ある〈引込線/放射線〉ステイトメントのうちのひとつとして、自己を規定し切らない自己紹介のような散文を以下に続けてみようと思う。
 
(1)
わたし(たち)は、自身のある部分で、生活者としてできる限り多くのことに気を回しながら日常を送っている。同時に、表現者としてそれらをできる限りシームレスに、蓄積してきた思考に繋げて昇華したり止揚したりしたい気持ちを持っている。しかし、そうした作業をするにはこの世界にはあまりに出来事が溢れている。立ち止まって考えるべき物事や対象が多すぎて、わたし(たち)は大抵の場合、大衆的な熱狂に任せるのとほとんど同じように、考えたり話し合ったりするべき話題を忘却してしまう(こともある)。
ひとつの身体とその活動が可能なひとつの時間では、限定されたキャパシティを思うように拡張することはほとんどできない。忘却や消費に抗うことを自覚して、時間を引き延ばし複層的であることを自身に義務付けることで、やっと少し部分的に物事を理解することができるのだ。
立ち戻って得たものはいつだって役立つので、日常のスピードに流されず考え感じることを続けなければならない。わたし(たち)の身体のある一部には、そのように思考する別の身体が住んでいるはずである。ひとつしかないと信じられているわたしの身体を、複数のわたし(たち)の身体として分割・再配置し、引き伸ばされた時間を分け合い、自分ではない誰かと共有すること。そしてその複数の時間の重ね合わせを「鑑賞者」をメディウムにして立ち上げることで、ひとつの大きな物語や熱狂に巻き込まれることに抗する複層的な表現が可能なるのではないか?
 
(2)
作品は、鑑賞者とどのような関係を結ぶときに「作品」として成立するのだろうか。作品が鑑賞者を獲得することは極めて難しい。しかし、簡単でもある。
ひとは、作品を目の当たりにした瞬間に「鑑賞者」という役割を負う。鑑賞の体験は作品を見る以前から始まっているとも言える。たとえば鑑賞者は、「鑑賞者」となるべく身支度をして展覧会へ足を運ぶ。作品を見る前から鑑賞者は「鑑賞者」として仕立て上げられているのである(あるいは、鑑賞者がみずから進んで「鑑賞者」になっているのだとも言える)。
また、作品の成立のために鑑賞者の参加を強いるようなエンゲージメント性の強い作品は、鑑賞者の体験を飲み込み、作品と鑑賞者が関係を結ぶ時間を拘束する。このとき作品は、鑑賞者という存在の一部を奪ってしまっている。鑑賞者もまた作品を作品たらしめる要因であるならば、鑑賞者のもつ可能性をもっと遊動的なものとして確保することで、作品と鑑賞者の関係が読み直せるのではないか。
たとえば仮に、身支度をして足を運んだ先に、鑑賞できるものがほとんど見当たらない状況があったとしたら。身支度をしたわたし(たち)は狭義の「鑑賞者」から解き放たれるのだろうか。あるいは足を運んだその先が、鑑賞者よりも演者の数が多いアンバランスな場だったとしたら。作品ともアートプロジェクトとも呼び難い、イベント未満のデキゴトが同時多発的に生起する環境になっていたとしたら。
鑑賞者が作品に到達するまでの経路をできるだけ引き伸ばし、「作品」が「作品」として成立する状況を散逸させ、「作品」が「鑑賞者」と関係を結ぶための条件を一から組み立て直そうとしたときに、「作品」の手前、「鑑賞者」の先には一体何が起こるだろうか。
 
(3)
「鑑賞者」とはあなたであり、わたし(たち)でもある。そして、「わたし(たち)」とは、必ずしも〈引込線/放射線〉の参加メンバーを指しているのではない。あなたや他の鑑賞者、鑑賞者の役割を負いうる人物らを内包した、不特定な人物像だ。わたし(たち)は〈引込線/放射線〉の第2期会場である旧市立所沢幼稚園において、「作品」と「鑑賞者」の役割を保留し、そして鑑賞の場を複数化し希釈することを試みたい。複数のデキゴトは、あらゆる企図から逃れて複数のズレた結果を生み出していく。
そうした状況のなかで「鑑賞者」は、実際に展覧会で起きていることと照らし合わせながら、本当のことが書いてあるだろうかと訝しみながら、〈引込線/放射線〉ステイトメントを読むことができる唯一の存在である。
 
ここにステイトメントを表明するということは、ひとつの大きな物語や熱狂に巻き込まれることに抗する意思を、〈引込線/放射線〉参加者の複数名、あるいは全員が持っていることのように見えるかもしれない。だが、複数名が共有しているということは、翻って、共有しているものが同じ程度ではないということを示している。
様々な「程度」で構成される不揃いのわたし(たち)は、それでも複数の声をのせた「この」ステイトメントを不特定の読み手に向けて発表する。ひとつのステイトメントの一部に含まれる可能性が、他のいくつかのステイトメント、作品、歴史、言説と重なり合い/ばらばらに交錯することで、まだわたし(たち)が目にしていないかたちが「鑑賞者」の内に立ち上がることを期待して。
[A. U. + M. N. ]                            
 
《ひとつではなく、複数のステイトメントを掲げ、散らす》2019、〈引込線/放射線〉実行委員会
 
 
 
 
 

 
 
 
ひとつの物語や価値判断に巻き取られることなく、すべてのわたしたちが「個」として複層的な表現を行うには、そしてその経験を鑑賞者と共有するためには、どのような方法を取ればよいだろうか。
日々立ち現れる新しい問題に、ひとつの身体で向きあうことは困難である。わたしたちの思考のキャパシティは、次々と話題を変えるバラエティ番組のような時間感覚にほとんど限定されている。大衆的な熱狂から距離を置くことは誰にとっても容易ではない。だが、パッケージ化されて提供される消費的な物語に対し、ひとりひとりが矛盾や異なる考えを孕んだ複層的・複数的な物語を持ち、結末への道筋にいくつもの迂回と緩慢な時間を挟むことができれば、それは大きな物語に抗する自律的な方法となり得るのではないか。
このような複層的な設えを思案するわたし(たち)は、複数ある〈引込線/放射線〉ステイトメントのうちのひとつとして、自己を規定し切らない自己紹介のような散文を以下に続けてみようと思う。
 
(1)
わたし(たち)は、自身のある部分で、生活者としてできる限り多くのことに気を回しながら日常を送っている。同時に、表現者としてそれらをできる限りシームレスに、蓄積してきた思考に繋げて昇華したり止揚したりしたい気持ちを持っている。しかし、そうした作業をするにはこの世界にはあまりに出来事が溢れている。立ち止まって考えるべき物事や対象が多すぎて、わたし(たち)は大抵の場合、大衆的な熱狂に任せるのとほとんど同じように、考えたり話し合ったりするべき話題を忘却してしまう(こともある)。
ひとつの身体とその活動が可能なひとつの時間では、限定されたキャパシティを思うように拡張することはほとんどできない。忘却や消費に抗うことを自覚して、時間を引き延ばし複層的であることを自身に義務付けることで、やっと少し部分的に物事を理解することができるのだ。
立ち戻って得たものはいつだって役立つので、日常のスピードに流されず考え感じることを続けなければならない。わたし(たち)の身体のある一部には、そのように思考する別の身体が住んでいるはずである。ひとつしかないと信じられているわたしの身体を、複数のわたし(たち)の身体として分割・再配置し、引き伸ばされた時間を分け合い、自分ではない誰かと共有すること。そしてその複数の時間の重ね合わせを「鑑賞者」をメディウムにして立ち上げることで、ひとつの大きな物語や熱狂に巻き込まれることに抗する複層的な表現が可能なるのではないか?
 
(2)
作品は、鑑賞者とどのような関係を結ぶときに「作品」として成立するのだろうか。作品が鑑賞者を獲得することは極めて難しい。しかし、簡単でもある。
ひとは、作品を目の当たりにした瞬間に「鑑賞者」という役割を負う。鑑賞の体験は作品を見る以前から始まっているとも言える。たとえば鑑賞者は、「鑑賞者」となるべく身支度をして展覧会へ足を運ぶ。作品を見る前から鑑賞者は「鑑賞者」として仕立て上げられているのである(あるいは、鑑賞者がみずから進んで「鑑賞者」になっているのだとも言える)。
また、作品の成立のために鑑賞者の参加を強いるようなエンゲージメント性の強い作品は、鑑賞者の体験を飲み込み、作品と鑑賞者が関係を結ぶ時間を拘束する。このとき作品は、鑑賞者という存在の一部を奪ってしまっている。鑑賞者もまた作品を作品たらしめる要因であるならば、鑑賞者のもつ可能性をもっと遊動的なものとして確保することで、作品と鑑賞者の関係が読み直せるのではないか。
たとえば仮に、身支度をして足を運んだ先に、鑑賞できるものがほとんど見当たらない状況があったとしたら。身支度をしたわたし(たち)は狭義の「鑑賞者」から解き放たれるのだろうか。あるいは足を運んだその先が、鑑賞者よりも演者の数が多いアンバランスな場だったとしたら。作品ともアートプロジェクトとも呼び難い、イベント未満のデキゴトが同時多発的に生起する環境になっていたとしたら。
鑑賞者が作品に到達するまでの経路をできるだけ引き伸ばし、「作品」が「作品」として成立する状況を散逸させ、「作品」が「鑑賞者」と関係を結ぶための条件を一から組み立て直そうとしたときに、「作品」の手前、「鑑賞者」の先には一体何が起こるだろうか。
 
(3)
「鑑賞者」とはあなたであり、わたし(たち)でもある。そして、「わたし(たち)」とは、必ずしも〈引込線/放射線〉の参加メンバーを指しているのではない。あなたや他の鑑賞者、鑑賞者の役割を負いうる人物らを内包した、不特定な人物像だ。わたし(たち)は〈引込線/放射線〉の第2期会場である旧市立所沢幼稚園において、「作品」と「鑑賞者」の役割を保留し、そして鑑賞の場を複数化し希釈することを試みたい。複数のデキゴトは、あらゆる企図から逃れて複数のズレた結果を生み出していく。
そうした状況のなかで「鑑賞者」は、実際に展覧会で起きていることと照らし合わせながら、本当のことが書いてあるだろうかと訝しみながら、〈引込線/放射線〉ステイトメントを読むことができる唯一の存在である。
 
ここにステイトメントを表明するということは、ひとつの大きな物語や熱狂に巻き込まれることに抗する意思を、〈引込線/放射線〉参加者の複数名、あるいは全員が持っていることのように見えるかもしれない。だが、複数名が共有しているということは、翻って、共有しているものが同じ程度ではないということを示している。
様々な「程度」で構成される不揃いのわたし(たち)は、それでも複数の声をのせた「この」ステイトメントを不特定の読み手に向けて発表する。ひとつのステイトメントの一部に含まれる可能性が、他のいくつかのステイトメント、作品、歴史、言説と重なり合い/ばらばらに交錯することで、まだわたし(たち)が目にしていないかたちが「鑑賞者」の内に立ち上がることを期待して。
[A. U. + M. N. ]                            
 
《ひとつではなく、複数のステイトメントを掲げ、散らす》2019、〈引込線/放射線〉実行委員会